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2007/12/17

神谷姓の由来は

以前書いた記事『神谷姓の分布は』を読まれた東京の神谷さんからメールをいただきました。この方のご先祖と菩提寺は徳川幕府とともに江戸に出てきたのだそうです。

お寺の石碑には「神谷氏・・・三州八名郡神谷村」と刻まれているそうで、ここがこの方のルーツと関係があるかもしれません。八名郡神谷村とは現在のどのあたりか知りませんかとのお尋ねでした。

ネット検索で、八名郡を探すと、たくさんのサイトが出てきます。共通しているのは、八名(やな)郡は現在の豊橋市、豊川市、新城市にかけて広がる地域で、主に豊川左岸(豊川の東側)の地域ということです。ただし残念なのは、いくつかの村から構成されていたようですが、「神谷村」がこの中のどこにあったかわかりません。

また別のサイトではこの地方の豪族牧野氏に神谷氏という家臣があったという記述があります。それ以上の詳しいことは不明です。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

私が知っている神谷の由来は亡くなった父から教えられましたが、岡崎と安城の間に流れている矢作川の近くに神谷村があり、その村出身者が神谷の性を名乗っているとの事でした。
因みに安城市は神谷を含む6人衆が作った街だそうです。

神谷さま
お知らせありがとうございます。何か文献などが残っているといいですね。西三河の神谷姓の中心地は安城ということでしょうか。

確かに現在東京出身の「神谷」姓は徳川と共に江戸にでてきた末裔です。現在の愛知県にあった「神谷村」出自の者が豊臣家に奉公するようになり、その後徳川と共に江戸に移り住んだ、と当方の家系図や記述に残されております。

コメントありがとうございます。

しっかりした家系図ですね。いつごろのものなのでしょうか。

神谷村とはどこかということになりますが、
wikipediaで「神谷町」を調べるてみると、
東京港区の神谷町の起源は、
「徳川家康に仕えた十三州御手廻御中間が、中間らの故郷三河国八名郡神谷村(現・愛知県豊橋市石巻辺)に因んで神谷町と改められた。」との記述があります。

こんにちは。祖母と家紋の話をしていて、少し調べもの・・・と思っていたらこのページにたどり着きました。

>岡崎と安城の間に流れている矢作川の近くに・・・
ちょうどこのあたりに住んでいますが、確かにこのあたりは安城の中でも神谷が多い区域かなと思います。
ちなみに我が家の本筋の家のお墓は、江戸時代末ごろからの人名が乗っています。他の古い家も同じくらいです。何かの参考になりますでしょうか・・。

神谷さん、コメントありがとうございました。
残念ながら、わたしも、家系図などには詳しくありません。
いつ頃書かれたものなのでしょうか?

神谷町」なつかしいですね。横やりを入れます。読み流してください。
わたしは若いころ通勤で地下鉄日比谷線の神谷町で乗り降りしていました。会社は西新橋 芝郵便局、慈恵会医科大学の近くでした。ともにほぼ隣接しています。会社まで徒歩で10分くらいです。川崎 武蔵小杉からは東急東横線経由です。JR東海道線を使うより距離が短いのだと思います。会社指定の通勤ルートです。
神谷町は下記のような位置にあります。
地下鉄神谷町の階段を上るとほぼ真上に東京タワーがそびえ立っています。ラジオ放送発祥の地 大正14年3月第一声を放送した愛宕山もすぐ近くです。芝増上寺も近くです。東京タワーの敷地はもともと芝増上寺の大きな境内の端にあります。

そうそう、神谷町は虎ノ門にありますので 神谷町駅の近くは「森ビル」--第22森ビル、第35森ビルとかが林立していました。いま地図で見ると"アークヒルズ"○○ビルという名に変わっているようですね。

神谷町」関連でもう一つ
神谷町からほんの少し南西にいくと高級住宅も多い麻布ですが「狸穴」という地名に驚きました。東京のど真ん中で「タヌキ」とは!!!!!しかし「タヌキアナ」とは読みません。「マミアナ」と呼びます。しかし、読み方は違っても意味するところは2つとも同じです。タヌキです。
霞が関、総理大臣官邸近くには「ため池」があります。「ため池」は国道246の立派な交差点です。今の天皇がご成婚のとき馬車で通った青山通りです。東宮御所も近いです。区画整理がされず"江戸時代のママ"なのでしょうね。

ソ連大使館が狸穴に立地していたのはブラックジョークとしか言いようがありません。

東京を歩いていると高低差があって楽しいと思います。
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2010/03/post-3a11.html
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2012/12/post-0835.html

TV番組「ブラタモリ」は古い江戸を教えてくれて好きな番組でした。
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2010/03/post-3a11.html

明治初期かわかりませんが私の曾おじいちゃんは
愛知の生まれでしたが若い頃に借金を作り九州へ逃げてきたと聞きました

大分の神谷さま
ご家族にそんな曰くがあるんですね。大分に「神谷」は珍しいのでしょうか?
愛知県(特に西三河)に多い神谷も、源平の戦に敗れて逃げてきた落人だという言い伝えがあります。家紋も平家の揚羽蝶と同じです。
ところで、先日たまたま九州の方のお話ししていたら、醤油はフンドーキン(分銅金)だという話題が出ました。名字の「〇別府」というのは大分なんでしょうか??

はじめまして、神谷さん。
遅ればせで済みません。

私は自分の旧姓である神谷のルーツをネットで調べていたところ、こちらに辿りついた次第で、つい足跡を残していこうかと。(はたして今更ここに気付いてくださるでしょうか?)

やはり愛知県が発祥なのでしょうかね。
私の父が愛知県豊田市出身です。私自身は静岡県西部で生まれ育ちましたが父方の親戚や母方の親戚の一部が愛知県内に散らばっているのでたまに愛知に出向くと神谷●●屋と書かれた看板を見かけたりしたので多いのだなということは子供の頃から感じてはいましたが。

ほかのサイトで以下のことが書かれていました。

・愛知県から静岡県西部にかけてと沖縄県に多くみられ、特に愛知県安城市に多くみられる。
・旗本の神谷家は藤原北家_宇都宮氏の一族で三河国額田郡神谷村をルーツとする。
・沖縄の神谷氏は勝連間切神谷村(沖縄県うるま市勝連)をルーツとする。

なるほど上にも岡崎と安城の間に流れている矢作川の近くに神谷村があり、とコメントされてる方がいますね。
虎ノ門の神谷町は愛知の神谷村が所以だったのですね。つい最近、神谷町で仕事をしていたのですが何だか不思議な縁を感じます。
その昔、職場に沖縄出身の方がいたのですがその当時、旧姓を名乗っていた私に「神谷さんは沖縄出身?沖縄にも神谷さんが一杯いるよ。」と言われ、愛知県の他に沖縄にも神谷さんが多いことを知らされました。
ほかのサイトに書かれていた愛知県と沖縄に関しては確かに神谷さんが多い、という情報はキャッチしていましたが私が生まれ育った静岡県西部(政令指定都市)ではそれほど神谷さんは多くなかったです。私のまわりだけだったでしょうか?(学年全体でもう1人いるかな?程度)

って、おそれおおくもこちらの神谷さんは東浦町長様なのですね。
きっと町のために日々活躍されているのでしょう。これからも頑張ってくださいませ。
ついついの長文申し訳ございません。それでは。

旧姓 神谷さま、コメントありがとうございます。

古い記事ですが、時折、神谷姓のルーツをたどっていらっしゃる方からコメントや情報をいただいたりしております。

旧姓 神谷さまの家紋は平家と同じ揚羽の蝶でしょうか。沖縄の神谷姓はたぶんルーツも違うと思うのでどんな家紋か興味があります。

以前の記事
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2005/07/post_3813.html
を見ていただくとわかりますが、神谷姓は愛知県の西三河地方(刈谷市・安城市・高浜市・知立市・碧南市・西尾市など主に旧碧海郡(一部幡豆郡))に分布しており、特に高浜市において密度が高くなっています。旧碧海郡は都市部ですので、総数としても全国の神谷姓の多くを占めるものと思います。私の住む東浦町は尾張にありながらもともと三河の影響の強いところですので、集落によっては神谷姓が多いところがあります。

他に、私の知る限りでは、神戸市と静岡市にお住まいで神谷姓の方がいらっしゃいました。やはりルーツは平家の落人との伝承があると聞いています。

「ココログ」の検索の不備について投稿します。
神谷町の記事を追加投稿しようとして"つれづれログ"内でこの記事を検索をしてもヒットしません。"このブログ内で検索"として「神谷姓」「神谷町」を検索ボタンを押すと"ブログ全体を検索"に変わって検索されます。このタイトルにヒットしません。google検索で「神谷姓」としてこのブログの記事にヒットしました。niftyに上げる問題かもしれませんが、、、

ご指摘ありがとうございます。
少し前から、niftyのブログ内検索がうまく機能しなくなりました。以前は重宝していたのですけど。
したがって、過去の記事を探すときは、Yahooで「○○ 神谷明彦」などと検索したりしています。
おっしゃる通りniftyの問題と思われますので、niftyに問い合わせるか、検索アイティムを削除するかしようかと思っていたところです。

 初めてメールを差し上げます。
 私は群馬県前橋市在住の工藤良之(58歳)といいます。生まれは青森県青森市です。実家は青森市にあります。
 私の父・工藤良平(旧姓神谷)の先祖は会津藩士で砲術指南役でした。戊辰戦争で敗れ、青森(斗南藩)に移封され、現在に至ります。
 会津の砲術指南役というと、去年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の山本家が有名ですが、実は会津藩には砲術の流派が20以上あり、その1つひとつに砲術指南役がいます。神谷家はその1つ永田流砲術の指南役(山本家は高島流の砲術指南役)でした。
 会津図書館所蔵の『諸士系譜(1833完成)』には、会津神谷家は初代・神谷類左衛門勝高(1666年)から始まり、6代の神谷勘之丞(私の高祖父)まで載っています。私の代で10代となります。
その諸士系譜によると、本姓:源、本国:信濃とあります。会津神谷家は、会津藩初代保科正之が信濃高遠藩の時からの家臣だったと思われます。その前はどうだったのかは分かりませんが、長野と愛知。距離的にもそんなに遠くない。もしかしたら、会津神谷家のルーツは愛知県にあるのかもしれません。今後、いろいろ調べてみたいと思います。
 私の曾祖父・神谷勘治、高祖父・神谷勘之丞、4代・神谷勘平はネットで検索できます。

工藤様
コメントありがとうございます。
高遠の神谷氏については初めて知りました。つながりはわかりませんが、信州でも伊那谷と三河・遠州との関わりは昔から人の往来などもあって、強かったのではと思います。現に、今でも方言などは本当によく似ています。

このブログ記事について、たくさんのみなさんからコメントをいただいて、全国各地の神谷氏の様子をうかがうことができれば楽しい限りです。

伊那谷と三河・遠州との関わりが昔から強かったとのこと。ますます一族の可能性が高いのではと思います。私の先祖は記録にも残っているように源氏ですが、一族を根絶やしにしないために敵味方(源氏と平氏)にわかれて戦ったということは充分考えられます。そして、戦いのあと、お互いにそう遠くないところに住んで、連絡をとりあっていたのではないでしょうか。
もしも、同じ神谷一族だったらですが。何百年かの時を経て、また、巡り会えたということは、なにか不思議な気がします。これもインターネットの力なのでしょうか。
私の先祖の神谷家の定紋は四ツ釘貫。他に替紋や幕紋など複数あったようです。現在の神谷家は五三の桐を使っています。

工藤様
私は、平家の落人が移り住んだところで神谷氏を名乗ったくらいに思っていましたが、それだと、古くから神谷氏があって源平の戦いで保険を掛けて生き残ったことになりますね。それでネット上で再会。夢が広がります。

神谷道彰と申します。
現在横浜に住んでいますが、実家は東京都台東区の合羽橋の近くです。
昔、父が神谷家のことを詳しく調べ、系図などの資料が保存されています。徳川家の家来として長男だった先祖が江戸に居を構え、深川に屋敷があったと聞いています。また現在の東京都目黒区の碑文谷にも領地があったようです。
神谷本家累代の墓がある寺は同じ台東区内にあり、やはり徳川家と共に移って来たようですが、この寺は直接江戸に来たわけではないようです。
父が神谷家のことを調べている時に、豊田市に幸福寺という寺を見つけました。茨城県の牛久にある牛久シャトーや浅草の電気ブランで有名な神谷伝兵衛氏、明治時代の発明家の宇都宮三郎氏に関連する資料があります。

私自身はまだあまり詳しくないのですが、亡き父の資料から神谷家についていろいろ調べようと思います。

ひとつ書き忘れました。

家紋は上がり藤丸に揚羽の蝶です。

その後さらに調べたところ、ルーツは三河国額田郡神谷村八田(ヤタ)の妙圀寺の近くのようです。

先頭に、お寺の石碑には「神谷氏・・・三州八名郡神谷村」と刻まれているそうで、とありますが、このお寺はどちらでしょうか。

神谷道彰様
コメントをいただきありがとうございます。
ここで言う「お寺」とは、東京の方のお寺の事だと思います。残念ながら場所はわかりません。
愛知県(特に西三河)には神谷という苗字がたくさんあります。我家の家紋は平家と同じで「揚羽蝶」と呼んでいます。この辺りにはシンプルな揚羽蝶が多いようです。「上がり藤丸に揚羽の蝶」をネットで調べてみましたが、比較的種類が豊富な
https://x181.secure.ne.jp/~x181007/kamon/goodslist.cgi?in_kate=13-2710&in_start=0&max=
でも、見つけられませんでした。

家紋には表紋(定紋)と裏紋(替紋)があり、江戸城に登城する際は表紋を使います。裏紋としては丸に揚羽蝶を使っています。
実際の絵柄はわかりませんが、同じ表紋を使っている分家もあるようです。
人形メーカーが提供している一般的な家紋帳には載らないかもしれません。

はじめまして。
福岡に住んでおりますが、出身は愛知県高浜市です。
我が家の家紋は「左違い鷹の羽」で、先日故郷のお墓参りに行った折に、他の神谷家の墓石の家紋が揚羽蝶ばかりなのに何故我が家は違い鷹の羽?という疑問を持ちました。
偶々訪れた、熊本の肥後一ノ宮・阿蘇神社の神紋も全く同じ「左違い鷹の羽」であることから、由来が気になって少々調べていたらこちらに辿り着きました。
自分自身まだ何もわかっていませんので、興味深く拝見させていただきました。

博多の神谷様
我家は、単純な揚羽蝶のみを使っておりますので、その辺りの事情はわかりません。
ご出身は、高浜なのですね。高浜は三河ですが、東浦は衣浦湾を隔てて高浜とは対岸同士、水続きです。東浦にも鶏飯やおまんと祭り(駆け馬)がありますが、たぶん高浜の方から伝わってきたのだと思います。
このブログの以前の記事
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2005/07/post_3813.html
をご覧になるとおわかりになると思いますが、(沖縄の神谷は別系統だとして)高浜の神谷の密度は、全国トップクラス。私の先祖も高浜から来たのかもしれません。

現在、東京在住の神谷です。出身は愛知県安城市で、生家は旧東海道沿いにあります。
元々、古い家でして、300年くらい前からの記録が巻物として残っており、実家の仏壇に保管されております。
実は、20年くらい前に郷土史家が神谷家のルーツを調べたようで、どうやら我が家が三河地方の神谷家のルーツだと言われまして、郷土史家が作成した冊子もいただいております。
当初は神谷姓ではなかったようですが、神谷姓を名乗ったいきさつなどが書かれていました。(どうやって調べたんでしょうかね?)
実は私も平家の流れかなと思っていましたが、(家の伝承でも平家と伝えられていましたので、)郷土史家の調査によりますと、藤原不比等につながってるとのことで本当に驚きました。
藤原氏だったなんて・・・、あまりの古さに全く信じられませんが・・・。
もし諸説あるようであれば、私も是非知りたいので教えていただきたいものです。

ちなみに現在は兄が跡を継いでおります。
家紋は揚羽蝶です。

神谷滋様

コメントをいただきありがとうございます。

祖父から聞いた話ですが、我家はお寺の過去帳で9代前まで遡れるそうです。ただしいつの時代の創作かもわかりませんし、何々氏につながるような情報は見つからないと思います。

そう言う意味では300年もキチンと記録が残っているのは貴重なことだと思います。
「三河地方の神谷家のルーツ」というのは、やはり300年も遡れる家はそんなにたくさん無いことから来ているのでしょうか? 旧東海道沿いの古い家ということは農家ではなくて商家でしょうか?

ところで、
1代ごとに子孫を2人ずつ残すとすると、
10代後の子孫は 2^10=1,024人
20代後の子孫は 2^20=1,048,576人
30代後の子孫は 2^30=1,073,741,824人
そう考えると、〇〇流と言っても、1000年、2000年遡ると人類みな兄弟で、じつは皆つながっていると言えそうな気がします。〇〇流というのは嫡流のことであって、血のつながりは(ルーツを探る意味がないほど)もっと広範にわたっているのではと思います。

すでにお調べかとは思いますが、ネットで「神谷家」を検索するといくつか出てきます。

・旗本の神谷家は藤原氏宇都宮氏族だそうです。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_ka2.html

・こちら(セールスのページ)では、神谷家は源氏流に振り分けられています。
http://www.kakeisi.com/survey/survey_aiti.html

・こちら(同様にセースルページ)では、源氏流、平氏流、藤原氏流など様々あるとの記述があります。
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A5%9E%E8%B0%B7

・浅草の神谷バーは幡豆郡一色の出身のようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E4%BC%9D%E5%85%B5%E8%A1%9B

・こちらには、これまで私の記事に対していただいたコメントにあるような断片的な情報があります。
http://folklore2006.jp/243.htm

以上、まとまりのない返信で失礼しました。

神谷姓と関係あるかわかりませんが、愛知県豊橋市の石巻の方で、東屋敷遺跡が見つかりました。その遺跡の中で、神谷御厨が関係しているのでは、ないかと話題になっています。

また、その東屋敷遺跡は、住所では、東屋敷というところですが、地区は神ヶ谷と呼ばれています。
神谷御厨とつながりがあり、神ヶ谷になったのか…
そこの神ヶ谷地区には、神谷さんという人は聞いた事ないですけど、同じ市内なら神谷さんがいます。

ほし様

情報をいただき、ありがとうございます。

話題とは、この事でしょうか。
http://www.maibun.com/top/modules/wordpress/index.php?p=83

鎌倉時代に石巻の辺りに伊勢神宮の荘園(御厨)があったようですね。

むかし、八名郡神谷村という地名がこの近くにあって、そのあたりの荘園ということで、神谷御厨と呼ばれていたのでしょうか。

神谷道彰です。
しばらく振りにブログを拝見しました。
手元に神谷氏系譜という明治29年2月に印刷発行された、深川霊巌寺の住職神谷大周氏の冊子があります。これによるとかなり古くから、1758年頃生まれた当家の9代目までの名前が載っています。
神谷家の始祖は神谷高正で、以前お話ししました豊田市の幸福寺に高正公を含め、その子孫の6基の墓があります。
神谷滋様の300年前からの巻物と神谷氏系譜を繋げれば、そのさらに前のルーツがわかるかもしれません。

続けてすみません 神谷道彰です。
神谷滋様が書かれているように、この神谷氏系譜で昔を辿ると、藤原鎌足や藤原不比等、さらには…命(…のみこと)となっており、信憑性が疑われます。ネットで調べますと江戸時代、功績のあったものには良い家系が与えられたとか。百姓出身の豊臣秀吉も良い家系を持っているようです。
先ほど記載しました神谷高正公以降は正しいと思います。

南北朝時代、新田義貞の傘下の宇都宮泰藤が、下野から三河国上和田に来住。上和田城を築城。三河国額田郡神谷村(岡崎駅から西に1km弱の妙國寺付近)で生まれた孫の高正は、1374年泰藤の命で碧海郡阿弥陀堂村(豊田市畝部西町)に移住。姓を神谷村に因み神谷とした。この神谷石見守高正が神谷氏の始祖。高正の子、高朝によってこの地に菩提寺の幸福寺が建立されました。明治41年4月13日幸福寺で石見守高正公500年忌法要が営まれました。

愛知県高浜市由来の神谷です.

私も,ここ数年,神谷姓の由来について,調べております.その中で,こちらのブログコメントにもある深川霊巌寺の住職神谷大周氏の「神谷氏系譜」は何度も読み返しております.

まず,本姓は,仮冒である事が多く,古い家系図は当てにはなりませんが,宇都宮氏の系統である藤原北家道兼流が通説となっています.

宇都宮氏との繋がりは,既述にもあるように,宇都宮泰藤-宇都宮泰朝-宇都宮高正(神谷始祖)となっています.

神谷高正の居城は,愛知県豊田市畝部西町高正にある「高正館(http://www.geocities.jp/shiro20051212/Takamasa-Yakata.html)」とされています.

高正の子,高朝の居城は,愛知県豊田市畝部西町城ヶ堀にある「国江城(http://www.geocities.jp/shiro20051212/Kunie-jo.html)」とされています.

問題となるのが「神谷」の由来です.
多くの方々は,「三河国額田郡神谷村」を由来とすると記載しておりますが,「神谷氏系譜」には「三州(三河国)八名郡神谷村」としており,寺の石碑に「神谷氏・・・三州八名郡神谷村」と刻まれているとの既述もあります.

先ずは,「三河国八名郡神谷村」について,東京にある「神谷町」の由来は,「三河国八名郡神谷村」が通説です.

また,「三河国八名郡神谷村」には,伊勢神宮の荘園である「神谷御厨(http://www.maibun.com/top/modules/wordpress/index.php?p=83)」があったとの事から,このあたりに「神谷」の地名が存在した事は間違いないと考えています.

「三河国額田郡神谷村」に関しては,私の検索では,額田郡に「神谷村」の存在が確認できず,今後の調査に委ねる事にします.

しかし,神谷高正が新田義貞に属して軍功を挙げ領した和田村〔岡崎市上和田町〕が「額田郡」にあり,「神谷氏」の出身地が「三河国額田郡」である事は,間違いないと考えています.

高浜市の神谷一族.

高浜市で,最も多い姓は「神谷」(8.6%)となっています.

高浜の歴史と産業によると,「高浜村には古河公方足利成氏の家臣であった一六家と称するものがあり、古河没落後この地へ移り住んだと伝えている。一六家は石原・山本・石川・都築・神谷らである。」としています.
http://www.katch.ne.jp/~sano/dobuita/newpage12.htm

即ち,高浜の「神谷氏」は古河公方「足利成氏」の家臣であり,古河公方の没落後に高浜へ移り住み,その地で最も繁栄した一族だという事になります.

室町時代の寛正6年(1465年),三河国と古河公方「足利成氏」との関わりのある一揆が,額田郡に起こりました.

「額田郡一揆」です.

この戦いは,古河公方の関わる一揆側が鎮圧され終息する事となります.

ここからは推測となりますが,この争いの後に,一揆側として「足利成氏」に従った「神谷氏」は高浜の地に移り住んだという事なのでしょうか?

次に,高浜について,高浜は「三河国碧海郡高浜村」との記述が多く見られるのですが,古くは「三河国幡豆郡大浜郷高浜村」であったとの事で,当時の高浜は「幡豆郡」であったのではないかと考えられます.

「神谷氏系譜」には,文明17年(1485年)に亡くなった神谷高元(高朝の孫)の弟に,神谷高康があり,名前の下の記述には「在軍受傷隠於三州八名郡子孫多幡豆郡」となっています.

額田郡一揆が寛正6年(1465年)ですから,神谷高康は一揆に参加したのかもしれませんね.

また,ここにも「三州八名郡」の名が出てきます.やはり,神谷の本貫地は,「三州八名郡」の「神谷村」なのでしょうか?

「子孫多幡豆郡」が,「三河国幡豆郡大浜郷高浜村」での子孫繁栄に繋がっているのだとしたら,大変面白いですね.

このページを閲覧している方で,高浜市に住んでおり,詳しい事をお知りの方がいらっしゃいましたら,ご意見を宜しくお願いします.

私の旧本籍地は愛知県高浜市碧海町三丁目(一度も住んだ事はない)ですが,現在は住上州です.

神谷誠様

詳しいご説明ありがとうございます。
いろいろなことがわかりました。
関東に住んでいるので三河のことは全く疎いのですが、八名郡を調べると明治11年に新設と書かれていました。さらにその昔にも八名郡があったのでしょうか。

神谷道彰様
引き続きコメントありがとうございました。
調べるといろいろなことが分かってくるものなのですね。
高正公500年忌法要は、子孫によって営まれたのでしょうか。今でも近くに縁者がいらっしゃるのでしょうか。

神谷誠様
コメントありがとうございます。
文章の書き振りからして、教職をされておられたのかと拝察いたしました。

知多半島の祭りはほとんどが山車(それも結構立派なものです)が出るのですが、東浦のみは駆け馬です。これは衣浦湾の対岸の高浜から伝わってきたものと思われます。それから地元のソウルフードである鶏飯も高浜と共通しています。東浦町の神谷は分布が狭くあまり多くはありませんが、おそらく高浜と同じ流れではないかと思います。

この地方の古い城郭について砦的なものまで含めて網羅的に調べているページがあるのには驚きました。
http://www.geocities.jp/shiro20051212/index.html

集めた情報を事実(裏付けのあるもの)と推測に整理したうえで、全体のストーリーが浮き上がってくるとすばらしいと思います。

多くの方々が、神谷のルーツについて、このページに書き込みを寄せてくださり、だんだん情報が集まってくるのに驚くとともに、ありがたく感じています。
少し複雑になってきましたが、楽しく拝見しています。今後とも、情報交換の場に使っていただければと思います。
(もし時間があれば、一度、情報を整理すると良いかもしれないと感じるようになりました。)

高正公500年忌法要は祭主は宇都宮三郎、挨拶は神谷大周により営まれました。

宇都宮三郎は尾張藩士神谷半右衛門義重の三男として生まれ、幼名は銀次郎。後に宇都宮姓に改姓。
沢山の痛快なエピソードがあることをネットで知りました。
ぜひ検索して、ご覧ください。
元三河鉄道社長で、ハチブドー酒や神谷バーの創設者でもある神谷伝兵衛氏と懇意だったようです。

近年幸福寺本堂改修の折、旧本堂の奥から500年忌法要で神谷大周が遺した表白文書が見つかり、600年忌法要で公開されたようです。

神谷道彰様

私自身も,歴史の専門家ではありませんので,時代により同じ名称が他で流用されたり,また,違う所で突然出てきたりと,混乱を来たす事が多いです.

地名などは,その地名がなくなったり,また,他の場所で同じ地名があったりと,混乱を来たす事も多々あり,それ以前に,地形自体が変わってしまったりと,本当に理解に苦しみます.

ここで,「郡」に関してです.

元々,「郡」は大宝律令において規定され,その地理的区分を幕末まで流用してきました.

律令体制下における「八名郡」の成立は,8世紀頃と言われています.

「郡」の仕組みが大きく変わったのは明治維新後です.郡区町村編制法により,行政区画として「郡」が規定され,その法律に基づいて明治11年に発足したのが「八名郡」という事になります.

古代からの「郡」と,明治の「郡」とは区別して考えないといけない様です.

歴史って,本当に奥が深いですよね.

このブログにアップする事が適当かどうかの判断をしかねるのですが,今後,各地に散らばった神谷氏の軌跡みたいなものを,アップしたいと考えています.

神谷道彰様、神谷誠様
私自身、神谷姓のルーツについて多くを知りませんが、思いがけず、たくさんの方が情報をお寄せくださり、感謝いたしてしております。
やはり、自分のルーツを知りたいと思うのは共通の願望でしょうか。先日も、人類のルーツをテーマにサイエンス講座を開催したところ、いつになく多くの参加者がありました。
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2016/06/post-8dd7.html

神谷明彦町長殿

>「神谷」という名字は、愛知県の西三河地方に多く、謂れに依れば、平家の落人の末裔?だそうです。
>家紋も一応、もっともらしく揚羽蝶になっています。

私の祖父の父親までは直系で系図があり、青色コピーを幾度も30年前に見て覚えております。

(系図に記載されていた内容)
・源姓神谷氏で初代は神谷新七郎(=源頼政の孫の一人の源仲忠)
・宇治の戦で破れ、落人となり3つの荘園の一つの若狭の国の神谷の荘に逃げて神谷姓を名乗る
・新七郎という人は10人位先祖におり、次に多いのが親十郎
・関が原の頃は同じ清和源氏の吉良家の家臣だった
・関が原の戦いで手柄をたて、徳川幕府では旗本4千石の直参旗本となる
・しかし息子が上司を切ってお家は断絶するが、後に再興し3百石の旗本として復帰
・明治維新では徳川慶喜公の御右筆の一人として静岡へいく
・静岡に本家が居て、愛知にも分家がいる

(補足)
・戦時の軍旗は揚羽蝶で家紋は向い蝶
・保元と平治の乱の時は平家側について生き延び、平家の中で源氏最高位の従三位になった
(平家の蝶紋を使用しているのはこの経緯が原因と思われる)
・若狭の国の神谷の荘は現在は神谷(こうだに)と呼ばれている
・祖父の父親は確か栄太郎で祖父は「たもつ」
・系図の原本は静岡の神谷家本家が大切保管しているはずである

本日、秋田書店の「新編 姓氏家系辞書」で下記を確認しました。
・源頼光流れの清和源氏
・源頼政の六男源仲忠が若狭の神谷荘に住して称す
・家紋は向かい蝶

大体、私の記憶通りでした。 よって以降の系図もほぼ正しいと思います。
しかし2大妖怪(酒天童子、鵺)を倒した2大武将の末裔とは。。

やっと実家で祖父の遺品の中から昭和51年の青色コピーを見つけました。

【神谷家の系図】 A3で8枚
(1枚目)系図
(2枚目)源姓神谷氏 家紋:浮線蝶 旗紋:丸之内上字 ?紋:亀之内揚羽蝶
     清和天皇→ 貞純親王→ 経基王→
(3枚目)源満仲→ 源頼光→ 頼国→ 頼綱→ 頼資→ 仲正→
     源頼政:宇治平等院自害 75歳 → 
(4枚目)※頼政の子供12人
1.仲綱:父同戦死
2.国政:父兄同戦死
3.兼綱:宇治戦死
4.近家:養子
5.頼兼:宇治戦死
6.廣綱
7.仲忠:①神谷新七郎蔵人大夫従五位下
    若狭国住〒神谷庄故為称号 宇治戦死→
8.頼尊
9.敬尊
10.女子:中務大輔経業室
11.女子:二条院仕女号讃岐歌人
12.女子:隆保郷内室

②忠廣:神谷新十郎舎人頭 父同戦死→③廣行:移〒三河国額田郡
④忠国:神谷新七郎→ ⑤忠光→
⑥忠元:属〒吉良上野→ ⑦持範→ ⑧範忠→神谷五郎左エ門→
(8枚目)
・・・→神谷恒次郎(表御右筆、記)

神谷亥の孫様
コメントありがとうございます。
あちこちに家系譜が残っているものです。皆さんが諸説、書いてくださって、だんだん情報が蓄積してきました。この中で名前が同じ方がいらして、家系がつながったりすると、一連の流れが整理できて面白いと思います。

(神谷 | 2012/09/17)
岡崎と安城の間に流れている矢作川の近くに神谷村があり、その村出身者が神谷の性を名乗っているとの事でした。
(神谷道彰 | 2016/05/25)
南北朝時代、新田義貞の傘下の宇都宮泰藤が、下野から三河国上和田に来住。上和田城を築城。三河国額田郡神谷村(岡崎駅から西に1km弱の妙國寺付近)
で生まれた孫の高正は、1374年泰藤の命で碧海郡阿弥陀堂村(豊田市畝部西町)に移住。姓を神谷村に因み神谷とした。

上記のお二人の神谷様にコメントします。
私の手許にあります源姓神谷氏系図では1180年の「以仁王の乱」、「宇治平等院の戦い」の記載に加えて、「三河国額田郡」や「矢作川」も登場します。

初代の源仲忠(神谷新七郎)は源頼政の第7子とあり、1180年時点で若狭の国の「神谷庄」に住んでいたので、神谷氏と号したあります。因って「神谷」は庄園名です。
3代の廣行は寛喜元年(1229年)7月に「三河国額田郡」に移りました
12代の忠治(神谷五郎左エ門)は永正元年(1506年)に今川家於「矢作川合戦」で戦死
14代忠次(神谷親七郎)は元亀元年(1570年)に援織田信長、天正9年(1601年)に高天神城攻めで2名生捕し4千石旗本になるも晩年息子の不祥事でお家断絶
16代忠経(神谷庄右エ門)は松平伊豆守に従う(お家再興?)
20代正意(神谷恒次郎)は表御右筆で本系図の筆記者、徳川慶喜公にお供して駿府へ移りました

神谷亥の孫様
ありがとうございます。
簡単にまとめていただいた感じでしょうか。

神谷姓の祖先のコメントが随分つづいていますね。先に横やりで東京日比谷線「神谷町」のコメントを入れました。「神谷町」の新しい動きの記事を見つけました。
神谷町ゴッドバレー協議会が発足 森トラストなど連携
2018/12/10 18:04 日経新聞電子版
森トラストは10日、都内で「神谷町ゴッドバレー協議会」の発足式を開いた。神谷町にゆかりを持つ20の企業や団体で構成する。新商品や新技術の開発促進に向けて交流するほか、神谷町の魅力を披露するイベントを年2回開催する。港区虎ノ門「神谷町」エリアを東京を代表とする国際的な拠点にしようと進める整備の一環で連携する。---略----

とだ-k様
市街地再開発をするというのではなくて、コトづくり。神谷町エリアでの交流を通じ、オープンイノベーションを進めるということですね。

千葉在住の並木と申します。私も母が神谷姓です。最近国会図書館で非常に詳細な神谷氏系譜を見つけましたので、興味がある方はこちらをご覧になったらいかがでしょうか。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780395

前のコメントに書かれている神谷高正も載っています。実は松平(源)泰親の子とありますので、これが本当ならば徳川家と同祖となります。

高正館にお墓がある宇都宮三郎も書かれています。半右衛門家の義綱のことと思われます。

ちなみに、私の母の家は、縫殿助家の正利の子孫のようです。

並木様
コメントありがとうございます。国会図書館には二十年以上前に行ったきりです。今では、このような冊子も簡単に検索できるのでしょうか。
残念ながら文章は読めませんが、神谷氏系譜拝見しました。神代から藤原家を経て、明治に至る壮大な系図です。卒年まで書いてあり、これを編むにあたって、おそらくいくつかの参考文献があって、それらを結びつけながらつくり上げたことがうかがわれます。逆にどうしてここまで詳細な情報を載せられるのか不思議な気もするくらいです。
ここにも三河国八名郡が出てきます。これまでコメントをいただいた多くの情報との整合性を見いだせるとおもしろいと思います。

千葉県在住の母の旧姓が神谷のものです
家系図に 愛知県出身(?)の神谷三次郎という人がいますが
。。神谷という名字
良く変わってると言われましたがけっこう沢山居られてビックリしました。

母の旧姓が神谷 様へ
お母様は千葉のお生まれなのでしょうか?
神谷は、愛知県の西三河地方ではポピュラーな苗字です。
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2005/07/post_3813.html

私が住む知多郡東浦町においても地区によっては神谷姓が比較的多いところがあります。
高校時代は刈谷市の高校に通っていましたが、西三河から生徒が集まってくるので、クラスに神谷が4人ほどいました。ですから、(今は別として)子どもの頃は苗字で呼ばれたことはありませんでした。

神谷明彦さま はい、母は松戸なのですが
祖父は 君津の矢那出身です。
愛知県ではポピュラーなのですね、クラスに4人。。!
あれから 戸籍を調べてみましたら、1番古いもので 神谷傳右衛門 出生地不明 が
市役所では限界とのことでした。(祖父は生前愛知だと言ってました本家がどこなのかわからないとのことです)

並木さまのコメントにある 神谷氏系譜 を調べてみましたら 傳右衛門家 とありましたが 近いうちに愛知県の方でも調べてみたいと思っております。

追記 家紋は 五三の桐でした。 秀吉が与えてたという。。 元の家紋は不明なので 調べています。

母の旧姓が神谷 様へ
コメントを拝見すると、何やら謎解きのようで、苗字のルーツ探しも遣り甲斐がありそうです。
神谷姓でよく聞くのは揚羽蝶の家紋ですが、五三桐を拝領したのではととの仮説ですね。

 はじめまして
 東三河からです。
 同級生や知り合いに神谷さんは何人もいます。
 豊川市中条町付近に、旧碧海郡ほどではないですが、何軒かあります。私は隣の牛久保です。
 話は変わりますが、もう40年ほど前になりますが、大学入学で上京して間もないころ、若いころ東京にいた祖父が、神谷バーに連れて行ってくれました。
 

柴田晴廣様
コメントありがとうございます。
神谷姓はもっぱら西三河だと思っていましたが、牛久保の近くにも多いのですね。八名郡とも近いのは何か関係があるのでしょうか。

神谷明彦さま

 プロフィールを見ると同学年のようです。
 ただ私は早生まれで、まだ還暦を迎えていませんが、
 さて八名郡との関係というと、上記のコメントにある東三河環状線沿線の箆矢神社付近との関係ということでしょうか?
 八名郡でももう少し北の賀茂(豊橋市賀茂町)辺りは、山本勘助を介して牛久保と繋がりがありますし、確か田辺藩の牧野山城守家は、賀茂を治めていたように、記憶しております。
 牛久保近辺の神谷さんは、たぶん、花井寺系の檀徒だと思います。花井寺の末寺の庚申寺(豊川市牛久保町八幡口)は、豊川城主水野氏ゆかりの寺院で、豊川連区にも、高校の同級生で神谷君がいました。
 以上のような雑な返信になりましたが、太田亮著『姓氏家系大辞典』には当たられましたか?
 太田亮氏は、『神社を中心としたる寶飯郡史』の著者でもありますから、東三河の神谷氏についても言及してあるように思います。

柴田晴廣様
「姓氏家系大辞典」とは、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938
のことでしょうか?
この記事にいただいたコメントの中にもありますが、神谷姓の八名郡発祥説があるようです。
あと、系統は全く違うと思いますが、沖縄にも神谷姓が多いそうです。以前、沖縄に行ったときに聞いたら「沖縄全体に多い苗字」と聞きましたが、特に沖縄県南部の糸満市や八重瀬町に多いようです。
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/images/familyname000277b1_3.gif
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2005/07/post_3813.html

神谷明彦さま

 『姓氏家系大辞典』、神谷さんが示されたもので間違いありません。
 角川書店版が豊川市中央図書館にありますから、図書館に行ったときに、確認して見ます。
 そちらだと、豊明立図書館が所蔵しているようですね。
 「神谷姓の分布」は、この投稿とともに読んでいました。
 コメント欄の任意のURL欄に記載したサイトから辿れば、わかると思いますが、こういったことを調べるのが私は好きです。
 牛久保周辺、舊寶飯郡を中心に東三河の神谷氏について調べてみます。
 現在、推敲中の『牛窪考(増補改訂版)』に何らかの形で反映できるようにも思います。
 貴兄の著作「神谷姓の由来」に参考になるようなことが見つかれば、間髪入れず、ここに投稿させていただきます。

 

柴田晴廣様

ありがとうございます。
この記事を載せたときに、こんなに多くのコメントをいただけるとは思いもよりませんでした。人が自分のルーツを探る強い情念を感じます。

都内在住の神谷です。なんとなく調べてたらたどり着き、神谷性の由来について長く盛り上がっているようなので、記念に投稿します。
私も出身は愛知県安城市の北東部で、岡崎市との境のあたりになります。祖母より教えられている家紋は2つあってひとつが揚羽蝶でした。もう一つは失念。

神谷(都内在住)さま
コメントありがとうございます。
我が家の家紋は、揚羽蝶だけのようです。
うちは代々知多郡在住なのですが、もとは海を渡ってすぐの三河の方から移ってきたのではと思います。姓の話題でこれだけコメントをいただけるのは、不思議なような嬉しいやら。ご縁ですね。

はじめまして。私の亡き母の実家が高浜市の神谷の家です。『愛知の城』という本の、高浜市のページに、神谷家の屋敷として載っています。
江戸時代には、大名クラスだったようで、参勤交代も行なったそうです。母の話では、ステキなお屋敷だったそうです。爵位も持っていたそうです。
その後、色々、色々あって、今の神谷家当主は、今もその地に住んでいます。
お屋敷は、三河大地震で倒れてしまい、今は普通の住宅です。
もっとお話しできる事は沢山ありますが・・・もっと知りたいですか?
私自身の個人情報も含まれますので、一旦ここまでで、コメントさせていただきます。

元加藤姓 様
コメントをいただきありがとうございます。
高浜の立派なお屋敷が残っていないのは残念です。
思いがけず、いろんな方が書き込みをしてくださり、全国の神谷さんとネット上でつながるご縁をいただいています。

東京の神谷町は、我が家の屋敷跡だそうです🍀九州に行った人は、私の大伯父様だそうです。
また、わかった事が有ったら、連絡します。(椿)

元加藤姓 様
コメントありがとうございます。
「神谷町」で検索すると、wikipedia以外にも、たくさんのサイトが出てきます。中には、江戸の古い地図と対比できるものもありました。近くのオランダ大使館は、駿河沼津藩水野出羽守屋敷跡だったそうです。東浦の水野家の子孫にあたります。

https://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/kuse/gaiyo/chimerekishi/14.html

https://folklore2017.com/timei700/70026.htm

https://ameblo.jp/jpwwblog/entry-12045667217.html

http://tohrusampo.hatenablog.com/entry/2018/01/26/214659

http://www.funkygoods.com/schwarzschild/2011_11/2011_11_06.html


下のサイトは江戸の地名の由来を簡単にまとめたものです。
https://note.com/takamushi1966/n/n5fa1340a1571

渡辺崋山を調べていますが、崋山が銀襖を描き、年賀に訪問していた江戸の神谷家をご存知でしょうか。
また、旗本の神谷家の家紋は「上がり藤に揚羽蝶」だそうですが、「亀甲に揚羽蝶」の神谷家を探しています。続群書類従完成会の「家紋でたどるあなたの家系」には 吉久、正利の系の定紋、とありました。

先ほどは不躾にも一方的なお願いを書き込み失礼しました。私は郷里の岩手県奥州市の郷土史を勉強しています。最近、亀甲に揚羽蝶の家紋が神谷家であることを知ったばかりですが、その神谷家についてのブログを見つけて、喜び勇み、知りたいことをぶつけた、という次第です。何方か、亀甲に揚羽蝶の家系の方についての情報をいただければ幸甚です。木村孝  拝

木村孝様
コメントありがとうございます。ご返事が遅くなり申し訳ありません。

亀甲に揚羽蝶の家紋については、良く存じません。

ちなみに、我が家は由緒正しい家柄でも何でもありませんが、平清盛と同じ、「丸に揚羽蝶」の家紋を使っています。このあたりの神谷家は平家の落人の系譜だという話しもあったりします。

件の亀甲紋についてですが、「亀甲に揚羽蝶」で検索すると、「亀甲については、亀の甲羅を図案化したもの。亀甲紋は出雲大社、厳島神社、香取神宮などの神紋ともなっており、出雲地方に多くみられる。」と出てきました。それ以外の情報は、残念ながら得られておりません。

安城市に住む神谷です。

我が家の家紋が二重亀甲に揚羽蝶です。

桜井松平氏の菩提寺(こちらの住職も神谷姓)の近くなのですが、位牌等で遡ると1803年が最も古い記録です。

神谷某様
(二重)亀甲に揚羽蝶というとこれですか。
https://kamon.myoji-yurai.net/kamonDetail.htm?kamonName=%E4%BA%80%E7%94%B2%E3%81%AB%E6%8F%9A%E7%BE%BD%E8%9D%B6

亀甲門は出雲由来とも言われますが、あちこちにあるようです。
http://harimaya.sakura.ne.jp/kamon/column/kikkou.html

同じ安城の神谷さんでも、さまざまな家紋がありそうで、調べると面白そうですね。

はじめまして
三重県に由来のある神谷です。
現在は大阪住まいですが、代々の墓は三重県の名張市にあります。
墓石の老朽化の為、墓石を新しくするにあたり、家紋が不明だったので、先祖について色々調べているうちに、自分のルーツに興味を持ち、ここにたどり着きました。

墓石の戒名には、江戸時代の日付も刻まれていて、
戸籍を遡って調べたのですが、役所には祖祖父の分までしか戸籍は残っていないとのことでした。墓のある寺は、過去帳は消失したそうです。
ですので、祖祖父の代までしか遡れておらず、家紋も不明です。

こちらのブログからは、神谷姓のルーツは、愛知県にあるとのことですので、近い三重県の私の先祖と結びつけば、家紋も判明すると思いますので、今後、さらに調べていきたいです。

続いての投稿、失礼致します。
こちらで取り上げられることの多い「神谷氏系譜」を私も拝見し、その中で気になる記載がありました。

神谷氏の始祖とされる高正の欄に、
「貞治(1362-1368)のころまで伊州神谷城で伊賀伊勢両国(国守)を補佐していたとする。」(「伊州神谷城補佐伊賀伊勢両国貞治之頃」)
という箇所です。

「伊州」は伊賀国のことのようで、高正が何らかの形で、三重県と関わりがあったように思います。
ただ、「神谷城」については、ネットで調べた程度ですが、情報は得られませんでした。

神谷(三重県由来)様

ご返事が遅くなり失礼いたしました。コメントをいただきありがとうございます。
伊賀の神谷城とは初めて聞きました。「伊賀」×「神谷城」で検索したら、
https://kabeya.amebaownd.com/posts/6647854/
が出てきました。このサイトは「壁谷氏」の系譜について調べたもの
https://kabeya.amebaownd.com/
ですが、この中で「壁谷」と「神谷」の関連について考察しています。
しかしながら、「神谷城」単独で検索しても、出てくるものは、島田市(旧金谷町)の神谷城(かみやしろ)と言う地名に関することばかりで、神谷城(かみやじょう)についての記述は見つけられませんでした。
それにしても、伊賀にも神谷の系譜があるのですね。多くの方が書き込んでくださることによって、様々な情報が集まってくるのは、興味深くもあり、ありがたいことです。

愛知県刈谷市の渡辺と申します。
神谷は母方の姓で周りにも沢山おり関心があります。
8世紀と発祥が古いので諸流を考えると複雑になりますね。
一番思うのは神谷とはどういう意味なのかという疑問です。
普通に考えると何か由来がないと「神」という不遜な字を頭には使いません。
神谷村が元だといっても、そこの神とは誰のことなんでしょうか?
何か特別な事がないと神谷村とは名乗れないと思います。

渡辺利彦 様
当て字もあるのかも知れませんが、確かに「神」と名乗るとは不遜な感じもします。「神のつく苗字」で検索すると、いろんな苗字が出てきます。
https://myoji-yurai.net/rareNameGod.htm
https://news.mynavi.jp/article/20141005-a024/

実にたくさんの苗字があるものです。神さんなど、神官系と考えられる苗字もあるようです。神谷は地形由来ではと書かれています。
ルーツについても多少の解説があります。
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A5%9E%E8%B0%B7

ご自身の苗字のルーツに関心をお持ちの方は多いようです。
このブログの記事も、いつの間にかに皆さん方が独自に調べられた情報が集まって、神谷のルーツのデータベースのようになってきました。ありがたいことです。

神谷(三重県由来)です。
ルーツについては、その後色々調べてはいますが、その道の専門家ではないので、中々苦労しております・・・。
上の方で述べられていた、「神谷」という地名ですが、私が調べている三重県名張市には、「神屋」(「神谷」とも表記されることはあったようです)という地域が存在しており、古代から中世にかけて伊勢神宮領の杣の地だったようで、「神」という文字を冠するには、ふさわしかったようにも思います。
他の地名の由来にも、同じような理由があるかもしれませんね。

神谷(三重県由来)様
コメントありがとうございます。お返しが遅くなり失礼いたしました。
地名には当て字が多く、発音を維持しながらも綴り字が何度も変わっている例は珍しくありません。「屋」や「谷」も一例だと思います。しかし、おっしゃるように「神」という字は、稲妻を表す「申」とお供え物を捧げる祭卓を表す「示」の会意文字で、畏れ多く使いづらい文字をわざわざ地名に使ったのには、単なる当て字ではなく、それなりの曰く所以があったのかも知れません。
また、沖縄の神谷をはじめ、全国各地に神谷姓の分布があるため、神谷のルーツは一様ではないのではと思います。

2015年に何度かこのブログに投稿させていただきましたが、久しぶりにまた投稿させていただきます。
このブログの文頭に、神谷家の分布の記事を読んだ東京の神谷さんからメールをいただきました。と書かれていますが、もしかしたら私の父かもしれません。内容が父から聞いたことと似ています。ただ父はパソコンなどは使えず、メールしたと言うのは疑問ですが。
江戸末期の古地図を使って父が示してくれた神谷家の屋敷は深川(東京都江東区)にあり、父が亡くなってから図書館でコピーして確認しました。近くに八名川小学校があります。三河の八名と通じていそうです。
また、おそらく父は知らなかったと思いますが、やはり近くにもう一ヶ所神谷家の土地を見つけました。
どなたかご存知でしたら教えて頂きたいのですが、地図には名前と石高、坪数が書かれていて、この二ヶ所は名前、石高、坪数が同じです。この坪数が同じと言うのは二ヶ所の坪数を足した数値をしめすのでしょうか。

神谷道彰様
時折、コメントをいただきありがとうございます。
メールについては、当時のメールをPCで確認できないため、残念ながら調べることができませんでした。
江戸の古地図のことは私ではわかりませんが、
歴史関連というよりは地形の今昔に注目して、古地図などを調査している「東京スリバチ学会」が著書を出版するなどの活動をしています。よかったら、参考にしてみて下さい。
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2019/08/post-5152e8.html

ところで、先日、愛知県碧南市の老舗の味醂やさんに行ったら、(江戸期の)いつ頃のものかはわかりませんが「三州八郡地理之図」が飾ってありました。その中に八名郡がはっきりと明記されていました。場所はやはり今の豊橋から新城にかけてのあたり。ぱっと見、神谷村は見あたらなそうでしたが。
https://kamiya-a.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/dsc054231800pnnnn.jpg

はじめまして。私も神谷と申します。現在は東京におりますが、父のルーツは三河の皆さんとは全く異なり、実は越前は福井県の勝山市です。父の弟である私の叔父から、「ルーツを辿ったら200数十年前の勝山の某寺の檀徒帳に神谷惣兵衛という人がいて、そこまでは辿れた」という話を聞いておりますので、江戸時代後期には「神谷さん」はそこに定住していたと思われます。Googleマップで勝山市を調べますと、勝山市村岡町栃神谷(むろこちょうとちがみや)、勝山市野向町薬師神谷(のむかいちょうやくしがみや)という地名や、神谷神社、地元の名水である神谷の水などがありますので、勝山も「神谷」の有力なルーツではないかと勝手に考えておりましたが、色々と「神谷」について調べてみても、どうやら勝山や福井出身の「神谷さん」はそれほど多くはないようですね。また、私の家紋は明智家と同じ桔梗ですので、やはり三河の神谷さんとは異なります。また非常な偶然ですが、隣家の奥様の旧姓がなんと「神谷」さんで、しかも奥様のご実家が福井市とのこと。ですので私は、ウチは完全に勝山の「神谷」という地名から名乗った神谷家なのだとも思っていました。でも...神谷姓についての有力な情報は、ほとんどが三河地方発信のものばかりで福井に関するものが極めて少ないことや、勝山藩を治めていたのは松平家であり、殿様が三河から「神谷」という家来を引き連れ、それが勝山や福井に土着した可能性もあるとも考えた次第です。皆さんは、越前は勝山の「神谷」さんとのご関係について、何かお聞きになったことはありますでしょうか。

江東の神谷様

投稿ありがとうございます。
詳しいことは存じませんので、なんとも申し上げられませんが、
https://name-power.net/fn/%E7%A5%9E%E8%B0%B7.html
に福井県若狭地方の神谷という記述が一瞬出てきます。
また、とても長い文章ですが、
https://kabeya.amebaownd.com/posts/6647854/
に、神谷の由来について綴られています。

しかし、江戸幕府成立以降の藩士の系譜ならば、三河から移ってきた可能性は十分あるような気がします。

愛知県の刈谷の横にある知立という市に8割神谷さんが住んでいる町があります。
そこの町内にお墓があるのですがほとんど神谷さんのお墓で中には2mほどのお墓もあったと思います。

さらに昔、事実かはわかりませんが…
祖父からここには神谷城と言う城があり神谷村と呼ばれていたこと
隠密、暗殺などをして名字と城と家紋を頂いたと聞いた事があります。

神谷です。様

コメントありがとうございます。
知立の神谷城・神谷村は、初めて聞きました。
「神谷村」で検索すると、過去に福島県石城郡神谷村(かべやむら)や高知県吾川郡神谷村(こうのたにむら)、大阪府泉北郡上神谷村(にわだにむら)などがあったようですが、いずれも「かみや」とは読みません。
神谷城(かみやしろ)の地名は、静岡県島田市に現存します。同名の保育園もあります。
私がネットで検索した限りでは、知立の「神谷城」あるいは「神谷村」は見つかりませんでした。
このブログのコメントにも出てきますが、神谷姓のルーツは、八名郡(現在の豊橋市、豊川市、新城市かけて広がる地域)あたりではとの説もあるようです。ただしルーツが一つとは限らないと思います。

父方のルーツが千葉県大多喜町です。
大多喜城は徳川四天王である本多忠勝が城主だったのですが、
「世帯数が多いのは愛知県西三河地方」
「この方のご先祖と菩提寺は徳川幕府とともに江戸に出てきたのだそうです」
といった記述から、何か関係ありそうだなと思いました。
ただの憶測で申し訳ありませんが、ご容赦くださいませ。

房総の神谷 様
コメントありがとうございます。
千葉県の神谷さんははじめてお聞きしました。
本多忠勝は家康とともに大多喜に移って、関ヶ原以後に桑名藩主となっています。本多本家はその後、徳川家の故郷 岡崎藩で幕末を迎えています。
家康の江戸転封とともに関東に移って、地元に定住したということもあったのかも知れません。何か言い伝えはないでしょうか?

神谷町長
何気に家紋について調べていたところ、このブログに流れ着きました。大変興味深く拝見させていただきました。ここに発言されている皆様ともしかしたら何処かでルーツが繋がっているかと思うと何だか感慨深いものがあります。記念に我が家のルーツの情報も記載させて下さい。

我が家のルーツ(父の実家)は安城市福釜町で、福釜松平家菩提寺である宝泉院近くにある神谷家の集落の中にあります。父の話では、大昔、福釜松平家の家臣(農業兼業?)だったそうで、菩提寺そばにある松平家三代の大変立派なお墓を守るかのように、今も道路からの入口部分に神谷一統のお墓が多く並んでおります。この地区には今も多くの神谷さんが住んでいるようです。
家紋は神谷町長と同じ「丸に揚羽蝶」でして、私が親族の葬儀で長野県に行った際にネクタイの家紋を見て多くの方からお声掛けいただきました。祖先が平家に由来があるのでは?という何だかロマン溢れるお話を多くいただき、我が家の家紋に興味を持った次第です。大変綺麗なデザインの家紋ですし、子供達にもしっかり伝えていきたいと思っております。

安城ルーツの神谷 様
返信が遅くなり大変失礼いたしました。
23号線のインターのある福釜近くは安城、岡崎方面へ行くときによく通るのですが、福釜松平家菩提寺 宝泉院や神谷家の集落のことは存じませんでした。わかりやすい道路沿いにあるようなので今後近くを通ったときに訪ねてみようと思います。良いお話を聞かせていただきありがとうございます。
揚羽蝶の紋は家紋としては結構複雑で、子どもの頃、彫刻の図案に使ったときに結構苦労した記憶があります。そんなことも思い出させていただきました。
何気なく載せた記事にコメントが集まって、さながらデータベースのようになるのは面白くもありがたくもあります。

安城ルーツの神谷 様
今日、福釜の宝泉院に行ってみました。浄土宗のお寺で、墓地には深津さんと、あと長坂という名字が目につきました。長坂があったのは意外でした。長坂は、東浦の1つの小学校区に昔から多い名字です。
すく近くの浄土真宗のお寺 西岸寺にも行ってきました。こちらは神谷がすごく多かったです。

神谷町長
お忙しい中、ご返信いただきありがとうございます。また私の拙いコメントをお読みいただいた上にわざわざ福釜までお立ち寄りいただけたとは本当に嬉しく思います。宝泉院は浄土宗でしたか?父方の葬儀はいつも浄土真宗だったはずなのでお寺さんの名前を間違えたかも知れません。もしかしたらお教えいただいた西岸寺だったのかな?何分古い記憶なので申し訳ありません。お墓はお寺さんから西に100m程離れた松林?の下にあって、横をすり抜けて奥に進むと開けた場所に3基の立派な松平家のお墓が並んでいました。子供の頃はよくお参りしてたのですが、当時はどのお墓も神谷家ばかりだったと記憶しています。今は分家して刈谷に住んでいるのですが、福釜から出てしまったせいで父(まだ存命ですが)があの中に自分のお墓を作れないと知った時は本当に寂しそうだったのを今もよく覚えております。
それと、長坂さんは安城にはそこそこいらっしゃると思うのですが、東浦には集落があったのですね。神谷姓は高浜市に多いとの事ですし、この地域には昔から色々と繋がりがあるのかも知れないなと思うと何だか嬉しく感じました。色々とご教示いただきありがとうございました。

安城ルーツの神谷 様
ご丁寧な返信をありがとうございます。
記憶の振り返りのお役に立てましたら幸いです。
私も、いただいたコメントのおかげで、少し道草をすることができました。

自分のルーツを探索したく、このページに辿り着きました。私も旧姓、神谷です。父方の家系は福島県いわき市の神谷です。調べてみた所、1960年頃まで、旧福島県平市(現在のいわき市の一部)が神谷村でした。家紋は丸に鳳蝶です。祖母の話によると、平氏側の落人と伺いましたが、その真相を知りたいと思いました。

愛知県の神谷です。
前々から気になっていたことをかきます。
神谷、のよみかたが問題だと思います。カミヤと読むのが愛知県のスターダドだと思います。
しかし、カミタニでしょ。とか、あるいは、ミタニでは?とか言いたいひともいるのではないでしょうか?
カミヤに限定した方が良いのでは?と思います。

孫から聞かれ、以来気になっていて最近このページにたどり着きました。聞いた話では父の祖父が明治のころ、いわき神谷から上京してきたとのことです。名字は「カミヤ」ではない「カベヤ」が正しいとしつこく言っていたと、父が笑って話していました。冗談だと思っていましたが、神谷の名字を本当に「カベヤ」と読む例があることを最近知り、何かいれがあるのか、いつからカミヤになったのか気になっています。家紋は丸に揚羽蝶です。

カミーラ様
神谷村とはディープですね。福島は地理的に遠いですが、家紋といい、落人の言い伝えといい、ルーツは同じかも知れませんね。

カミヤ様
沖縄の神谷は「かみたん」ではなくて「かみや」だそうです。でも、ルーツは異なりそうです。
読み方は、その地域によって違いがあるかも知れないので、緩く考えていきたいと思います。ここにコメントをいただくのは自由なので、私としては「かみたに」さんでも、「しんや」さんでも、「紙谷」さんでも結構です。

孫から聞かれ・・・様へ

1月末にいわき市の神谷さんからコメントをいただいています。同じルーツかも知れませんね。
いわき市には、今でも神谷(かべや)の地名が残っていて、この付近に住んでいる神谷さんは“かべや”さんと発音するようです。

いわき市に残る神谷と壁谷については、こちらに詳しく書かれています。参考になるかも知れません。
https://kabeya.amebaownd.com/posts/3849046/

旧神谷(かべや)村については、wikipediaにも記述があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E6%9D%91_(%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C)

以前2014.10.31に投稿しました工藤良之です。9年ぶりに、また投稿いたします。実はあれから、少しずつですが、神谷について調べています。角川日本姓氏歴史人物大辞典に長野県姓氏歴史人物大辞典がありまして、その中の神谷の項目を書き写して、載せておきます。

長野県姓氏歴史人物大辞典 神谷(かみや)
市部では、松本に多く、郡部では、南安曇郡三郷村に多い。上水内郡牟礼村大字黒川、通称東黒川の神谷雅人家は、家伝によれば、始祖は神谷石見守高正で、明徳3年に三州(愛知県)碧海郡阿弥陀堂村の幸福寺に葬られたという。のち子孫が現在地に移る。この系を信濃神谷といい、江戸に出た一族は江戸神谷と呼ばれ、徳川氏に仕えた。代々佐左衛門を襲名し、黒川東組の名主を務め、また幕府領の村々の取締役ともなり、苗字帯刀を許された。安政年間の持高は69石余であった。正徳5年に大古間村(信濃町)の七郎右衛門から酒株を譲り受け、酒造業も行った。文政6年の村明細帳には休業とあるが、現在も当家を「酒屋の家」と呼ぶ。明治12年佐左衛門は巌と改名、同18年に牟礼村外10か村戸長、同22年に牟礼村長となる。家紋は現在抱き柏であるが、本来は上がり藤に揚羽蝶という。同族で、屋号「隠居屋」の4代神谷敏治は、戦後農地改革の専任書記として大任を果たした。
とあります。
たぶん、私の父の神谷もこの信濃神谷家の系統なのだろうと思います。つまり、愛知県の神谷の流れを酌んでいるのということになるのでしょうか。また、何かわかったら、投稿しますので、よろしくお願いします。

私もとうとう高齢者の通知が届くようになり、身の周りの
整理をしなくてはと思い家系図を作る気になった処です。
時々、江東区の深川に神谷の屋敷が在ったと云う文字を目にする事があります。
それは多分私の曾祖母の(神谷清堂)の事だと思います。
当時の住所は東京市深川霊厳町四拾六番地、現在は(江東区白河1-6-6)で清澄通りと清洲橋通りの交差点の辺りで都営大江戸線(清澄白河駅)の真上になります。
清洲橋通りを挟み向い側には神谷大周が住職を務めた
霊厳時が御座います。因みに家紋は(上がり藤に揚羽蝶です)
詳しく書くと非常に長くなりますので今回はこの辺で失礼致します。

工藤良之様

返信が遅くなり失礼いたしました。
前回2014年に投稿いただいたときは、会津神谷家は領主の保科氏とともに信州から移ってきたのではないかとの話題でしたね。現在も飯綱町や松本近くに神谷姓が散在しているとのこと。

こちらにおもしろい記述がありますので紹介します。
このブログに2016年5月に投稿されたコメントです。
_____________________

南北朝時代、新田義貞の傘下の宇都宮泰藤が、下野から三河国上和田に来住。上和田城を築城。三河国額田郡神谷村(岡崎駅から西に1km弱の妙國寺付近)で生まれた孫の高正は、1374年泰藤の命で碧海郡阿弥陀堂村(豊田市畝部西町)に移住。姓を神谷村に因み神谷とした。この神谷石見守高正が神谷氏の始祖。高正の子、高朝によってこの地に菩提寺の幸福寺が建立されました。明治41年4月13日幸福寺で石見守高正公500年忌法要が営まれました。
_____________________

これによれば、神谷高正、阿弥陀堂村の幸福寺、明徳3年(1392年)・・・長野県姓氏歴史人物大辞典と見事一致しています。

ただ、こちらでは、新田義貞の傘下の祖父が下野から来住、孫の高正は額田郡神谷村で生まれたとあります。
こちらの記述では、神谷村という地名が先にあったようにも受け取れます。

こういうつながりをほぐしていく作業が面白そうです。

神谷清堂のひ孫様
コメントありがとうございます。ご先祖に思いを巡らし、家系図をつくられているとのこと。
またの投稿をお待ちしております。

八名郡神谷村についての記述です。特にあった場所など、改めて記します。
 
まず、現存する「八名」の地名ですが、
新城市八名地域自治区 https://www.city.shinshiro.lg.jp/kurashi/chiikijichiku/jichiku-yana/jichiku.html
新城市立八名中学校 https://www.city.shinshiro.lg.jp/edu/yana-jh/annai/kihon.html
https://loco.yahoo.co.jp/place/g-YS795XBQfAk/map/?bm=sydd_spt_slo_p_ttl
などがあります。

この辺りは、旧八名村のあったところと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%90%8D%E6%9D%91
 
八名郡は、現新城市のほか、豊橋市、豊川市にもまたがっており、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%90%8D%E9%83%A1
この中の、旧吉田藩領に神ヶ谷村があります。

こちらにも、旧八名郡神谷村は現豊橋市石巻あたりとの記述があります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E7%94%BA

これは、千年村プロジェクトの荘園マップとも符合します。
http://mille-vill.org/%E5%8F%82%E6%B2%B3%E5%9B%BD%E5%85%AB%E5%90%8D%E9%83%A1%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E5%BE%A1%E5%8E%A8(%E8%8D%98%E5%9C%92)

再度の投稿です。紹介いただいた記事
https://kabeya.amebaownd.com/posts/3849046/
がとても参考になりました。大変感謝しています。特に後半の”削られた神谷家の出自”から先の内容。神谷氏が江戸幕府の寛政重修諸家譜に”神谷村に居し神谷と称し””(藤原)秀郷の苗裔、伊賀國の守護伊賀光季が十七代の後裔”だと書いてあるとのこと。そして最後にある全国の神谷氏の情報も、とても参考になりました。
神谷氏は宇都宮泰藤の血筋との記事が大量にありますが、wikipediaの武茂氏(宇都宮泰藤)のページにも”武茂泰藤は三河国の大久保氏の祖となったと伝えられるが徳川氏が新田氏の子孫というのと同じ類の仮冒とされる。”とあります。本当はどうなのか分かりませんが、いろいろ情報交換できるといつかわかるかもしれませんね。

孫から聞かれ・・・ 様

丁寧なコメントをいただきありがとうございます。
熱心に神谷家のルーツを探られている様子が伝わってきます。
昔のことなので事実を知るのは難しいと思いますが、その中でもスッキリとした解釈に近づけること、そして、想像をめぐらす楽しさに触れられればと、祈念しております。

コメントされてる方の中にお会いした事のない血縁の方がいそうで驚きました。
谷中のお墓のこと、神谷バーのこと牛久シャトーのこと本当によくご存知で、、こちらが教えていただきたいほどです。私の母が神谷伝兵衛の孫にあたります。身内から、三河、牛久、藤原のワードと壁屋などは聞いております。牛久シャトーも静岡の別荘も一時住んでいたそう。
神谷バーは元々分家で戦争の時に本家と分家入れ替えたとか、、?後継を戦争に出さないため?とか、、。ルーツの同じ知らない神谷さんもいるのですね、、。徳川家と同じ霊園にあるお墓には毎年先祖参りに行きます。
うる覚えで、すみません。

神谷の者 様
コメントありがとうございます。
驚いたり、気づきがあったり、ここのコメント欄が何かお役に立てれば幸いです。
西三河では、傳兵衛さんの研究や顕彰する活動が行われています。

https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E5%82%B3%E5%85%B5%E8%A1%9B-%E5%91%B3%E5%B2%A1%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4806207462

https://www.city.kariya.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/010/378/20220401/18.pdf

https://note.com/starcatmike2021/n/nfdab50f1b410

全国に神谷さんがおられることが良く分かりました。
しかし、西三河では矢作川の流域にルーツがあるのでは?と思います。
先祖の地の草分七軒には、神谷の他に、青木、片山、鈴木、鷲塚などがあります。
何かの参考になればと思います。

愛知県碧南の神谷です 様へ

コメントありがとうございます。
せっかくコメントをいただいたにもかかわらず、大変返信が遅くなってしまいました。失礼をお許しください。

神谷家のルーツはいくつかあるのかも知れませんが、このブログのコメント欄にいただいた情報では、東三河の八名郡神谷村(いまの豊橋市石巻町付近?)のあたりではないかとの説があります。
八名郡の名残は今でもあって、新城市の南部には八名中学校や八名郵便局の名があります。

ご興味があれば、(少し長いですが)コメントを振り返ってご覧ください。

神谷性は沖縄南部が日本の中で一番多く
愛知県の三河にも多いです。
私は愛知県民です。
六本木に神谷町もありますね。
沖縄の琉球王に仕えた右腕の政治家の子孫
と思われます。
神谷村は離島に現在も存在します。
沖縄の八重瀬町に多い性です。
家紋は確かにアゲハ蝶ですが、
平家と繋がっているかはかなり昔なので
わかりません。

今晩は2月頃に送りました神谷幸です。
夫の父、伯父叔母等から聴いた話では、一色の神谷の全ては内が本家で、神谷伝兵衛さんは、元々数代前に内から出た方ですが、訳あって神谷家から出られたそうです。多分戦争から守るためだったと思われます。夫の本家も戦争前に朝鮮へ開拓に、また戦
後は、一色に戻り屋敷を取り壊し開拓で豊田へ。柱
等その一部を持ってきて自宅を建ててます。
 神谷家の本当の歴史を知りたいです!また一色の栄えた時代をもっと知りたいです。私達が聴いた話等参考に調査して下さると嬉しいです。伝兵衛さんの本家と分家のお互いの苦労や、一色の活気を取り戻したいです。夫は亡くなる前に伝兵衛さんに会いに行きたいといって願い叶わず亡くなりました。皆さんのご協力頂けたらありがたいです。

夫や家族親戚から一色の神谷の全て内が本家で神谷伝兵衛さんは元々数代前に内から出た方で訳あって出られた。多分戦争から守るためだったと思われます。本家も戦争前に朝鮮へ開拓にまた戦後は一色に戻り屋敷を取り壊し豊田へ開拓に。柱等その一部で自宅を建てる。神谷家の本当の歴史を知りたい!一色町の栄えた時代、徳川との関係、一色の活気を取り戻したいです。私達が聴いた話等参考に調査して下さると嬉しい。夫は亡くなる前に伝兵衛さんに会いたい願い叶わず死亡。皆さんのご協力頂けたらあ
りがたいです。

投稿を載せて頂きありがとうございます。
 夫の話では多分神谷は伊勢にいて→静岡→一色へ。手柄をたて苗字帯刀をお殿様から頂き、一色に来たのではないかなと。お殿様のご機嫌伺いの役職でお殿様の側近だったようです。
夫と50年の付き合い、この家は何か普通とは違うな?と思いつつ過ぎてました。本当は旧字体の苗字ですが、お墓や子供達には新字体の神谷で通し(家紋と戸籍が真実を語る)また親族は立派な方が多く詳しく聴く事が出来なく、ただ父の弟がそんなに神谷を知りたいなら、「家の事を調べ何冊か本にした奴が居るから其を観ればいい。面白おかしく書いてあり事実と少しずつ違う」との事。もう40年程前の話で皆さん亡くなってます。
 一色の、野田に広い屋敷があり土地も広く、西尾迄は他人の土地を踏まずに行けたそうです。地元の方々は神谷家に奉公に行けるのが名誉だったそうで12人の奉公人が居たそうです。門から玄関迄が遠く、また屋敷は広く襖を開けても開けてもスッとは辿り着けなく怖かったと父が話してくれました。屋敷に神社もあり、私が嫁いだ頃母は12本の御神酒を毎年奉納してましたが、開拓で豊田にきて歳月が達ち「もういいかな」と止めてます。
 歳と共に記憶が薄らぎ一色の繁栄した昔を知ってる方が減ると思われます。何とかならないかなと思います。

昔は西尾市に合併前の一色町で、神谷の家長は西尾に行くには人力車に乗り矢作川の橋を渡ってました。西尾は遊び処が沢山有ったようです。 また江戸へもお殿様と一緒にお供してたかも?「何でうちは農家なのに刀を差しお殿様と歩いとるんだーと?」不思議だったと曾祖父さんが子供の頃思ったとのこと。
 また家紋は神谷伝兵衛さんと同じ家紋です。家紋を上手く表現出来ませんが、なかなか見かけません。外が◎で中が亀甲で中央が蔦三枚で各々つるが三本で珍しいと思います。

神谷幸様、

私は、実家が神谷姓の、78才の老女です。
二年前に実家の兄が亡くなった後、戸籍謄本を見ていて、次男であった祖父がなぜ、家を継いだのか、不思議に感じて、祖父の兄である、大伯父が東京へ出て行かれた訳を、調べてみたいと思いました。
明治時代は長男が絶対的で、養子に行ってはいけない、徴兵されることはない、など、優遇されていたのに、なんで?
大伯父の戸籍は、ずっと実家に置いたままでしたが、そこから分かることは、わずかで、なかなか、手掛かりになるものが見つからず、苦労しました。
所がある日、国立図書館のデジタル版につないで、大伯父の名前をずばり、検索してみた所、大量にヒットして出てきたのです。
写真も見たことのなかった大伯父の人生が、くっきり、見えてきました。大伯父は優秀な人だったので、沢山ヒットしましたが、明治時代は、官報というものに、個人のことも結構載りますから、普通の人でも、一つや二つ、ヒットすることもわかりました。

その国立図書館で「神谷氏系譜」と検索をすると、「神谷大周」氏の書かれた神谷氏系譜が出てきて、その中に「神谷傳伝衛家」は載っていて、明治時代まで載っていますから、神谷幸様のご先祖様名も、そこに載っていると思われますよ。

私の実家は安城市東端町で、江戸時代中期に書かれた「三河二葉松」に、「東端屋敷 神谷輿七郎」とあるので、その子孫かも知れない、とは思えても、輿七郎家は江戸時代中期以降が書かれていませんので、確証にならず、今も調べている最中で、ここも時々読ませて頂いてます。
幸様の、参考になれば良いのですが。

うばゆり様、
コメントありがとうございます。
この地域に縁がなかった私は歴史等に無関係で何も分かりません。またインターネット通信等怖くて中々やれません!
でも長年の「この家は何か違うな」を解決したくて思いきって投稿してます。

 祖母は今川発祥の地の出のお嬢様で朝昼晩毎日3回着物を着替えさせられ「こんな生活はもう嫌じゃ!普通の生活がしたい」と一色の祖父と結婚し、今川は妹が継いでます。 また私の夫の母は松木島天満宮近くの人です。先妻が病死後乳呑み子が残り、子育ての為に後妻募集し6人程候補で自分が選ばれたと喜んで話してくれてました。母も神谷家の詳しい話しはしなかったですが、私が嫁に来て数年後、夫の妹に縁談話があり神谷家を調査した方が来て「は、はー恐れ多くもとんでもない処に縁談話を持ち掛けて、申し訳有りませんでした。」と頭を深々と下げて帰って行かれました。母はニコニコ顔。私は水戸の黄門様でも有るまいし大げさTVの見過ぎ、こんなことしないと断れないのかな?と思いました。
 また別の話では、お皿が特別だった様で遠方から豊田まで調べに鑑定に来た人がいたと。1枚2~3万する皿を普段使いしてました。夫言わく「皿は鑑賞するものではない、使って生きるもの。割れても其で良い」お陰で割れて無くなってます。
全く無縁の私や娘が偶然、伝兵衛さんをインターネットで見つけやっと話が結び牛久市に引っ越しされた教授が地域を知ろうと散策されインターネット掲載され以前伝兵衛さん関係の方と連絡を取って頂いたのに夫は「違ってたらどうするんだ。関係ない」と拒否してました。
 伝兵衛さんの顔と夫の顔が良く似てて泣けます。性格も人を寄せる人格も似てます。子供の頃は背が低く、中学頃急に背が伸び170~以上あり、父も親戚も180近くあり頭を下げないと小壁に頭を打ってました。神谷家は皆さん遺伝でしょうかね。家系図が見当たらず開拓時紛失?
 長い雑談でした。またぼちぼちと調べてみたいと思います。うばゆりさま、皆様方、色々アドバイス頂きましてありがとうございます。

神谷由里江様
返信が遅くなり失礼しました。

沖縄の神谷姓は数的には決して多くはありません。
(「名字由来net」 https://myoji-yurai.net/myojiPrefectureDetail.htm?myojiKanji=%E7%A5%9E%E8%B0%B7&prefecture=%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C によれば、愛知県およそ36,900人、沖縄県およそ5,900人とあります。)

ただし、沖縄県では特定の地域に神谷姓が集中しているため、島尻郡東風平町の神谷姓の密度は全国一となっています。これについては以前ブログで書きました。
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2005/07/post_3813.html

東京の地名などにある「神谷」はもっぱら三河から移り住んだ神谷さんが起源になっていると思います。
沖縄の神谷姓と三河の神谷姓は全く関係はなく、それぞれ独立した名字と考えられます。沖縄の神谷姓のルーツについては、こちらのサイトに詳しく取り上げられています。
https://note.com/spicy_jack/n/ndd9660b74242

沖縄の神谷家の家紋については、私は情報を持っていません。

神谷明彦様
 
 二十日ほど前、こちらに書かせて頂いたゆばゆりと申します。
一年位前から、時々拝見し、参考にさせて頂いております。色々な情報を載せて頂き、有難うございます。

 実は私も、神谷大周様の「神谷氏系譜」につきまして、教えて頂きたいことがございますので、お願い致します。

 「神谷氏系譜」の中で、大周様は「これを読んで、不明な所などの、情報を皆様から頂き、さらに充実した系譜にしたいものです。」ということを書かれています。
その「神谷氏系譜」を発行されたのは、明治29年で、大周様が亡くなられたのは、大正9年です。
その間、24年間の間に、書き足された部分がある筈だと思われるのですが、その後の「神谷氏系譜」はどなたが保存してみえるのか、という情報につきましては、何かご存じないでしょうか?

 と、言いますのも、大伯父のことを調べていた時、実家の隣家の方(その辺りの神谷の本家と思われる家で、大伯父より5才年下ですが、大伯父を追うように明治23年に東京へ出られ、教職や文筆業をされていて、本も出版されている)の名前が、「神谷氏系譜」の中には、載っていないのに、大周様の葬儀の時には、神谷傳兵衛様達との連名で、弔辞を書いてみえるのを見つけたのです。
 つまり、亡くなられるまでの24年間の間に、大周様と知り合いになられ、系譜の中のどこかに載せて貰われたのでは?と想像出来るのです。
 大周様は、深川の霊厳寺にみえましたが、隣家の方も大伯父も、浅草や深川近辺に住んでおりました。
大伯父は、大周様と同じ宗派(浄土宗)のお寺の娘さんと結婚をしています。

 「神谷氏系譜」を見ると、三河の神谷一族の本家本元は豊田の「神谷高正様」で、そこから三河一帯に子孫が散らばったように見えます。
その神谷高正様の500年祭を、明治25年に大周様達が中心になって、盛大にとり行ってみえます。
その4年後に、この「神谷氏系譜」を出版してみえる訳ですから、相当な思い入れだったと思われます。

 大周様の残された書物は、「大倉精神文化研究所」という所に、ほとんどあると聞きましたので、過日、問い合わせてみたのですが、仏教関系の書物だけで、「神谷氏系譜」はありませんと言われました。

 もし、なにか、情報をお持ちでしたら、教えて頂けませんでしょうか。
 よろしくお願い致します。

こんにちは、家紋良く見ると、丸に中が二重亀甲で中央が蔓柏3本で伝兵衛さんと同じです。源氏と平家が混ざった家系かと思われます。 娘言わく二重亀甲だから神様に使えた家系ではと想像。
東京の叔父は以前「一色の神谷は三河三大庄屋」と言われてたと話してました。インターネットで今探しても出てきません。 また一色の野田平「のだへい」と言えば誰でも分かると言ってました。
また位牌の蓋裏に大きく「と」と書かれてますが、何かのメッセージなのか?
ずっと「虎のと」と思ってましたが徳川か豊臣か何かのメッセージだと思います。お寺探しを最近してますが、なかなか時間がなく。図書館も未だ行けてません。本当に隠された神谷家なのかも?
イヤイヤ私の想像かも!

うばゆり 様、神谷 幸 様

ご自分の家のルーツに関心のある方がたくさんいらっしゃることに改めて驚き、感じ入っております。
それぞれの家にはそれぞれの歴史があることと思います。ルーツを調べようとすれば過去帳などを含めた文献が残っているかが手がかりになると思います。伝え聞いた話しや噂を重ねて想像を巡らせるのはそれはそれで楽しいこですが、想像の域を出ることはないと思います。

うばゆり様がお尋ねの「神谷氏系譜」については、存じませんし調べたこともありません。残念ながら情報を持ち合わせておりません。

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