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2007/12/17

神谷姓の由来は

以前書いた記事『神谷姓の分布は』を読まれた東京の神谷さんからメールをいただきました。この方のご先祖と菩提寺は徳川幕府とともに江戸に出てきたのだそうです。

お寺の石碑には「神谷氏・・・三州八名郡神谷村」と刻まれているそうで、ここがこの方のルーツと関係があるかもしれません。八名郡神谷村とは現在のどのあたりか知りませんかとのお尋ねでした。

ネット検索で、八名郡を探すと、たくさんのサイトが出てきます。共通しているのは、八名(やな)郡は現在の豊橋市、豊川市、新城市にかけて広がる地域で、主に豊川左岸(豊川の東側)の地域ということです。ただし残念なのは、いくつかの村から構成されていたようですが、「神谷村」がこの中のどこにあったかわかりません。

また別のサイトではこの地方の豪族牧野氏に神谷氏という家臣があったという記述があります。それ以上の詳しいことは不明です。

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コメント

私が知っている神谷の由来は亡くなった父から教えられましたが、岡崎と安城の間に流れている矢作川の近くに神谷村があり、その村出身者が神谷の性を名乗っているとの事でした。
因みに安城市は神谷を含む6人衆が作った街だそうです。

投稿: 神谷 | 2012/09/17 11:50

神谷さま
お知らせありがとうございます。何か文献などが残っているといいですね。西三河の神谷姓の中心地は安城ということでしょうか。

投稿: 神谷(管理人) | 2012/09/18 07:46

確かに現在東京出身の「神谷」姓は徳川と共に江戸にでてきた末裔です。現在の愛知県にあった「神谷村」出自の者が豊臣家に奉公するようになり、その後徳川と共に江戸に移り住んだ、と当方の家系図や記述に残されております。

投稿: 神谷 | 2013/01/28 19:01

コメントありがとうございます。

しっかりした家系図ですね。いつごろのものなのでしょうか。

神谷村とはどこかということになりますが、
wikipediaで「神谷町」を調べるてみると、
東京港区の神谷町の起源は、
「徳川家康に仕えた十三州御手廻御中間が、中間らの故郷三河国八名郡神谷村(現・愛知県豊橋市石巻辺)に因んで神谷町と改められた。」との記述があります。

投稿: 神谷明彦(管理人) | 2013/01/29 07:43

こんにちは。祖母と家紋の話をしていて、少し調べもの・・・と思っていたらこのページにたどり着きました。

>岡崎と安城の間に流れている矢作川の近くに・・・
ちょうどこのあたりに住んでいますが、確かにこのあたりは安城の中でも神谷が多い区域かなと思います。
ちなみに我が家の本筋の家のお墓は、江戸時代末ごろからの人名が乗っています。他の古い家も同じくらいです。何かの参考になりますでしょうか・・。

投稿: 神谷 | 2013/04/11 23:21

神谷さん、コメントありがとうございました。
残念ながら、わたしも、家系図などには詳しくありません。
いつ頃書かれたものなのでしょうか?

投稿: 神谷明彦 | 2013/04/12 08:00

神谷町」なつかしいですね。横やりを入れます。読み流してください。
わたしは若いころ通勤で地下鉄日比谷線の神谷町で乗り降りしていました。会社は西新橋 芝郵便局、慈恵会医科大学の近くでした。ともにほぼ隣接しています。会社まで徒歩で10分くらいです。川崎 武蔵小杉からは東急東横線経由です。JR東海道線を使うより距離が短いのだと思います。会社指定の通勤ルートです。
神谷町は下記のような位置にあります。
地下鉄神谷町の階段を上るとほぼ真上に東京タワーがそびえ立っています。ラジオ放送発祥の地 大正14年3月第一声を放送した愛宕山もすぐ近くです。芝増上寺も近くです。東京タワーの敷地はもともと芝増上寺の大きな境内の端にあります。

投稿: とだ-k | 2013/08/03 20:25

そうそう、神谷町は虎ノ門にありますので 神谷町駅の近くは「森ビル」--第22森ビル、第35森ビルとかが林立していました。いま地図で見ると"アークヒルズ"○○ビルという名に変わっているようですね。

投稿: とだ-k | 2013/08/03 20:37

神谷町」関連でもう一つ
神谷町からほんの少し南西にいくと高級住宅も多い麻布ですが「狸穴」という地名に驚きました。東京のど真ん中で「タヌキ」とは!!!!!しかし「タヌキアナ」とは読みません。「マミアナ」と呼びます。しかし、読み方は違っても意味するところは2つとも同じです。タヌキです。
霞が関、総理大臣官邸近くには「ため池」があります。「ため池」は国道246の立派な交差点です。今の天皇がご成婚のとき馬車で通った青山通りです。東宮御所も近いです。区画整理がされず"江戸時代のママ"なのでしょうね。

投稿: とだ-k | 2013/08/03 21:17

ソ連大使館が狸穴に立地していたのはブラックジョークとしか言いようがありません。

東京を歩いていると高低差があって楽しいと思います。
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2010/03/post-3a11.html
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2012/12/post-0835.html

投稿: 神谷明彦 | 2013/08/04 10:46

TV番組「ブラタモリ」は古い江戸を教えてくれて好きな番組でした。
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2010/03/post-3a11.html

投稿: とだ-k | 2013/08/04 16:06

明治初期かわかりませんが私の曾おじいちゃんは
愛知の生まれでしたが若い頃に借金を作り九州へ逃げてきたと聞きました

投稿: 大分の神谷 | 2013/12/13 01:01

大分の神谷さま
ご家族にそんな曰くがあるんですね。大分に「神谷」は珍しいのでしょうか?
愛知県(特に西三河)に多い神谷も、源平の戦に敗れて逃げてきた落人だという言い伝えがあります。家紋も平家の揚羽蝶と同じです。
ところで、先日たまたま九州の方のお話ししていたら、醤油はフンドーキン(分銅金)だという話題が出ました。名字の「〇別府」というのは大分なんでしょうか??

投稿: 神谷明彦 | 2013/12/15 06:41

はじめまして、神谷さん。
遅ればせで済みません。

私は自分の旧姓である神谷のルーツをネットで調べていたところ、こちらに辿りついた次第で、つい足跡を残していこうかと。(はたして今更ここに気付いてくださるでしょうか?)

やはり愛知県が発祥なのでしょうかね。
私の父が愛知県豊田市出身です。私自身は静岡県西部で生まれ育ちましたが父方の親戚や母方の親戚の一部が愛知県内に散らばっているのでたまに愛知に出向くと神谷●●屋と書かれた看板を見かけたりしたので多いのだなということは子供の頃から感じてはいましたが。

ほかのサイトで以下のことが書かれていました。

・愛知県から静岡県西部にかけてと沖縄県に多くみられ、特に愛知県安城市に多くみられる。
・旗本の神谷家は藤原北家_宇都宮氏の一族で三河国額田郡神谷村をルーツとする。
・沖縄の神谷氏は勝連間切神谷村(沖縄県うるま市勝連)をルーツとする。

なるほど上にも岡崎と安城の間に流れている矢作川の近くに神谷村があり、とコメントされてる方がいますね。
虎ノ門の神谷町は愛知の神谷村が所以だったのですね。つい最近、神谷町で仕事をしていたのですが何だか不思議な縁を感じます。
その昔、職場に沖縄出身の方がいたのですがその当時、旧姓を名乗っていた私に「神谷さんは沖縄出身?沖縄にも神谷さんが一杯いるよ。」と言われ、愛知県の他に沖縄にも神谷さんが多いことを知らされました。
ほかのサイトに書かれていた愛知県と沖縄に関しては確かに神谷さんが多い、という情報はキャッチしていましたが私が生まれ育った静岡県西部(政令指定都市)ではそれほど神谷さんは多くなかったです。私のまわりだけだったでしょうか?(学年全体でもう1人いるかな?程度)

って、おそれおおくもこちらの神谷さんは東浦町長様なのですね。
きっと町のために日々活躍されているのでしょう。これからも頑張ってくださいませ。
ついついの長文申し訳ございません。それでは。

投稿: 旧姓:神谷 | 2014/05/07 22:42

旧姓 神谷さま、コメントありがとうございます。

古い記事ですが、時折、神谷姓のルーツをたどっていらっしゃる方からコメントや情報をいただいたりしております。

旧姓 神谷さまの家紋は平家と同じ揚羽の蝶でしょうか。沖縄の神谷姓はたぶんルーツも違うと思うのでどんな家紋か興味があります。

以前の記事
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2005/07/post_3813.html
を見ていただくとわかりますが、神谷姓は愛知県の西三河地方(刈谷市・安城市・高浜市・知立市・碧南市・西尾市など主に旧碧海郡(一部幡豆郡))に分布しており、特に高浜市において密度が高くなっています。旧碧海郡は都市部ですので、総数としても全国の神谷姓の多くを占めるものと思います。私の住む東浦町は尾張にありながらもともと三河の影響の強いところですので、集落によっては神谷姓が多いところがあります。

他に、私の知る限りでは、神戸市と静岡市にお住まいで神谷姓の方がいらっしゃいました。やはりルーツは平家の落人との伝承があると聞いています。

投稿: 神谷明彦 | 2014/05/10 16:19

「ココログ」の検索の不備について投稿します。
神谷町の記事を追加投稿しようとして"つれづれログ"内でこの記事を検索をしてもヒットしません。"このブログ内で検索"として「神谷姓」「神谷町」を検索ボタンを押すと"ブログ全体を検索"に変わって検索されます。このタイトルにヒットしません。google検索で「神谷姓」としてこのブログの記事にヒットしました。niftyに上げる問題かもしれませんが、、、

投稿: とだ-k | 2014/07/02 21:46

ご指摘ありがとうございます。
少し前から、niftyのブログ内検索がうまく機能しなくなりました。以前は重宝していたのですけど。
したがって、過去の記事を探すときは、Yahooで「○○ 神谷明彦」などと検索したりしています。
おっしゃる通りniftyの問題と思われますので、niftyに問い合わせるか、検索アイティムを削除するかしようかと思っていたところです。

投稿: 神谷明彦 | 2014/07/06 22:40

 初めてメールを差し上げます。
 私は群馬県前橋市在住の工藤良之(58歳)といいます。生まれは青森県青森市です。実家は青森市にあります。
 私の父・工藤良平(旧姓神谷)の先祖は会津藩士で砲術指南役でした。戊辰戦争で敗れ、青森(斗南藩)に移封され、現在に至ります。
 会津の砲術指南役というと、去年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の山本家が有名ですが、実は会津藩には砲術の流派が20以上あり、その1つひとつに砲術指南役がいます。神谷家はその1つ永田流砲術の指南役(山本家は高島流の砲術指南役)でした。
 会津図書館所蔵の『諸士系譜(1833完成)』には、会津神谷家は初代・神谷類左衛門勝高(1666年)から始まり、6代の神谷勘之丞(私の高祖父)まで載っています。私の代で10代となります。
その諸士系譜によると、本姓:源、本国:信濃とあります。会津神谷家は、会津藩初代保科正之が信濃高遠藩の時からの家臣だったと思われます。その前はどうだったのかは分かりませんが、長野と愛知。距離的にもそんなに遠くない。もしかしたら、会津神谷家のルーツは愛知県にあるのかもしれません。今後、いろいろ調べてみたいと思います。
 私の曾祖父・神谷勘治、高祖父・神谷勘之丞、4代・神谷勘平はネットで検索できます。

投稿: 工藤良之 | 2014/10/31 19:22

工藤様
コメントありがとうございます。
高遠の神谷氏については初めて知りました。つながりはわかりませんが、信州でも伊那谷と三河・遠州との関わりは昔から人の往来などもあって、強かったのではと思います。現に、今でも方言などは本当によく似ています。

このブログ記事について、たくさんのみなさんからコメントをいただいて、全国各地の神谷氏の様子をうかがうことができれば楽しい限りです。

投稿: 神谷明彦 | 2014/11/02 18:57

伊那谷と三河・遠州との関わりが昔から強かったとのこと。ますます一族の可能性が高いのではと思います。私の先祖は記録にも残っているように源氏ですが、一族を根絶やしにしないために敵味方(源氏と平氏)にわかれて戦ったということは充分考えられます。そして、戦いのあと、お互いにそう遠くないところに住んで、連絡をとりあっていたのではないでしょうか。
もしも、同じ神谷一族だったらですが。何百年かの時を経て、また、巡り会えたということは、なにか不思議な気がします。これもインターネットの力なのでしょうか。
私の先祖の神谷家の定紋は四ツ釘貫。他に替紋や幕紋など複数あったようです。現在の神谷家は五三の桐を使っています。

投稿: 工藤良之 | 2014/11/02 23:53

工藤様
私は、平家の落人が移り住んだところで神谷氏を名乗ったくらいに思っていましたが、それだと、古くから神谷氏があって源平の戦いで保険を掛けて生き残ったことになりますね。それでネット上で再会。夢が広がります。

投稿: 神谷明彦 | 2014/11/04 08:08

神谷道彰と申します。
現在横浜に住んでいますが、実家は東京都台東区の合羽橋の近くです。
昔、父が神谷家のことを詳しく調べ、系図などの資料が保存されています。徳川家の家来として長男だった先祖が江戸に居を構え、深川に屋敷があったと聞いています。また現在の東京都目黒区の碑文谷にも領地があったようです。
神谷本家累代の墓がある寺は同じ台東区内にあり、やはり徳川家と共に移って来たようですが、この寺は直接江戸に来たわけではないようです。
父が神谷家のことを調べている時に、豊田市に幸福寺という寺を見つけました。茨城県の牛久にある牛久シャトーや浅草の電気ブランで有名な神谷伝兵衛氏、明治時代の発明家の宇都宮三郎氏に関連する資料があります。

私自身はまだあまり詳しくないのですが、亡き父の資料から神谷家についていろいろ調べようと思います。

投稿: 神谷道彰 | 2015/08/15 21:24

ひとつ書き忘れました。

家紋は上がり藤丸に揚羽の蝶です。

投稿: 神谷道彰 | 2015/08/15 21:26

その後さらに調べたところ、ルーツは三河国額田郡神谷村八田(ヤタ)の妙圀寺の近くのようです。

先頭に、お寺の石碑には「神谷氏・・・三州八名郡神谷村」と刻まれているそうで、とありますが、このお寺はどちらでしょうか。

投稿: 神谷道彰 | 2015/08/18 14:38

神谷道彰様
コメントをいただきありがとうございます。
ここで言う「お寺」とは、東京の方のお寺の事だと思います。残念ながら場所はわかりません。
愛知県(特に西三河)には神谷という苗字がたくさんあります。我家の家紋は平家と同じで「揚羽蝶」と呼んでいます。この辺りにはシンプルな揚羽蝶が多いようです。「上がり藤丸に揚羽の蝶」をネットで調べてみましたが、比較的種類が豊富な
https://x181.secure.ne.jp/~x181007/kamon/goodslist.cgi?in_kate=13-2710&in_start=0&max=
でも、見つけられませんでした。

投稿: 神谷明彦 | 2015/08/24 23:33

家紋には表紋(定紋)と裏紋(替紋)があり、江戸城に登城する際は表紋を使います。裏紋としては丸に揚羽蝶を使っています。
実際の絵柄はわかりませんが、同じ表紋を使っている分家もあるようです。
人形メーカーが提供している一般的な家紋帳には載らないかもしれません。

投稿: 神谷道彰 | 2015/09/20 00:36

はじめまして。
福岡に住んでおりますが、出身は愛知県高浜市です。
我が家の家紋は「左違い鷹の羽」で、先日故郷のお墓参りに行った折に、他の神谷家の墓石の家紋が揚羽蝶ばかりなのに何故我が家は違い鷹の羽?という疑問を持ちました。
偶々訪れた、熊本の肥後一ノ宮・阿蘇神社の神紋も全く同じ「左違い鷹の羽」であることから、由来が気になって少々調べていたらこちらに辿り着きました。
自分自身まだ何もわかっていませんので、興味深く拝見させていただきました。

投稿: 博多の神谷 | 2015/09/25 21:52

博多の神谷様
我家は、単純な揚羽蝶のみを使っておりますので、その辺りの事情はわかりません。
ご出身は、高浜なのですね。高浜は三河ですが、東浦は衣浦湾を隔てて高浜とは対岸同士、水続きです。東浦にも鶏飯やおまんと祭り(駆け馬)がありますが、たぶん高浜の方から伝わってきたのだと思います。
このブログの以前の記事
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2005/07/post_3813.html
をご覧になるとおわかりになると思いますが、(沖縄の神谷は別系統だとして)高浜の神谷の密度は、全国トップクラス。私の先祖も高浜から来たのかもしれません。

投稿: 神谷明彦 | 2015/09/28 22:44

現在、東京在住の神谷です。出身は愛知県安城市で、生家は旧東海道沿いにあります。
元々、古い家でして、300年くらい前からの記録が巻物として残っており、実家の仏壇に保管されております。
実は、20年くらい前に郷土史家が神谷家のルーツを調べたようで、どうやら我が家が三河地方の神谷家のルーツだと言われまして、郷土史家が作成した冊子もいただいております。
当初は神谷姓ではなかったようですが、神谷姓を名乗ったいきさつなどが書かれていました。(どうやって調べたんでしょうかね?)
実は私も平家の流れかなと思っていましたが、(家の伝承でも平家と伝えられていましたので、)郷土史家の調査によりますと、藤原不比等につながってるとのことで本当に驚きました。
藤原氏だったなんて・・・、あまりの古さに全く信じられませんが・・・。
もし諸説あるようであれば、私も是非知りたいので教えていただきたいものです。

ちなみに現在は兄が跡を継いでおります。
家紋は揚羽蝶です。

投稿: 神谷 滋 | 2015/12/02 20:36

神谷滋様

コメントをいただきありがとうございます。

祖父から聞いた話ですが、我家はお寺の過去帳で9代前まで遡れるそうです。ただしいつの時代の創作かもわかりませんし、何々氏につながるような情報は見つからないと思います。

そう言う意味では300年もキチンと記録が残っているのは貴重なことだと思います。
「三河地方の神谷家のルーツ」というのは、やはり300年も遡れる家はそんなにたくさん無いことから来ているのでしょうか? 旧東海道沿いの古い家ということは農家ではなくて商家でしょうか?

ところで、
1代ごとに子孫を2人ずつ残すとすると、
10代後の子孫は 2^10=1,024人
20代後の子孫は 2^20=1,048,576人
30代後の子孫は 2^30=1,073,741,824人
そう考えると、〇〇流と言っても、1000年、2000年遡ると人類みな兄弟で、じつは皆つながっていると言えそうな気がします。〇〇流というのは嫡流のことであって、血のつながりは(ルーツを探る意味がないほど)もっと広範にわたっているのではと思います。

すでにお調べかとは思いますが、ネットで「神谷家」を検索するといくつか出てきます。

・旗本の神谷家は藤原氏宇都宮氏族だそうです。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_ka2.html

・こちら(セールスのページ)では、神谷家は源氏流に振り分けられています。
http://www.kakeisi.com/survey/survey_aiti.html

・こちら(同様にセースルページ)では、源氏流、平氏流、藤原氏流など様々あるとの記述があります。
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A5%9E%E8%B0%B7

・浅草の神谷バーは幡豆郡一色の出身のようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E4%BC%9D%E5%85%B5%E8%A1%9B

・こちらには、これまで私の記事に対していただいたコメントにあるような断片的な情報があります。
http://folklore2006.jp/243.htm

以上、まとまりのない返信で失礼しました。

投稿: 神谷明彦 | 2015/12/05 08:01

神谷姓と関係あるかわかりませんが、愛知県豊橋市の石巻の方で、東屋敷遺跡が見つかりました。その遺跡の中で、神谷御厨が関係しているのでは、ないかと話題になっています。

投稿: ほし | 2016/05/01 19:00

また、その東屋敷遺跡は、住所では、東屋敷というところですが、地区は神ヶ谷と呼ばれています。
神谷御厨とつながりがあり、神ヶ谷になったのか…
そこの神ヶ谷地区には、神谷さんという人は聞いた事ないですけど、同じ市内なら神谷さんがいます。

投稿: ほし | 2016/05/01 19:06

ほし様

情報をいただき、ありがとうございます。

話題とは、この事でしょうか。
http://www.maibun.com/top/modules/wordpress/index.php?p=83

鎌倉時代に石巻の辺りに伊勢神宮の荘園(御厨)があったようですね。

むかし、八名郡神谷村という地名がこの近くにあって、そのあたりの荘園ということで、神谷御厨と呼ばれていたのでしょうか。

投稿: 神谷明彦 | 2016/05/05 13:22

神谷道彰です。
しばらく振りにブログを拝見しました。
手元に神谷氏系譜という明治29年2月に印刷発行された、深川霊巌寺の住職神谷大周氏の冊子があります。これによるとかなり古くから、1758年頃生まれた当家の9代目までの名前が載っています。
神谷家の始祖は神谷高正で、以前お話ししました豊田市の幸福寺に高正公を含め、その子孫の6基の墓があります。
神谷滋様の300年前からの巻物と神谷氏系譜を繋げれば、そのさらに前のルーツがわかるかもしれません。

投稿: 神谷道彰 | 2016/05/18 17:05

続けてすみません 神谷道彰です。
神谷滋様が書かれているように、この神谷氏系譜で昔を辿ると、藤原鎌足や藤原不比等、さらには…命(…のみこと)となっており、信憑性が疑われます。ネットで調べますと江戸時代、功績のあったものには良い家系が与えられたとか。百姓出身の豊臣秀吉も良い家系を持っているようです。
先ほど記載しました神谷高正公以降は正しいと思います。

投稿: 神谷道彰 | 2016/05/18 17:18

南北朝時代、新田義貞の傘下の宇都宮泰藤が、下野から三河国上和田に来住。上和田城を築城。三河国額田郡神谷村(岡崎駅から西に1km弱の妙國寺付近)で生まれた孫の高正は、1374年泰藤の命で碧海郡阿弥陀堂村(豊田市畝部西町)に移住。姓を神谷村に因み神谷とした。この神谷石見守高正が神谷氏の始祖。高正の子、高朝によってこの地に菩提寺の幸福寺が建立されました。明治41年4月13日幸福寺で石見守高正公500年忌法要が営まれました。

投稿: 神谷道彰 | 2016/05/25 21:50

愛知県高浜市由来の神谷です.

私も,ここ数年,神谷姓の由来について,調べております.その中で,こちらのブログコメントにもある深川霊巌寺の住職神谷大周氏の「神谷氏系譜」は何度も読み返しております.

まず,本姓は,仮冒である事が多く,古い家系図は当てにはなりませんが,宇都宮氏の系統である藤原北家道兼流が通説となっています.

宇都宮氏との繋がりは,既述にもあるように,宇都宮泰藤-宇都宮泰朝-宇都宮高正(神谷始祖)となっています.

神谷高正の居城は,愛知県豊田市畝部西町高正にある「高正館(http://www.geocities.jp/shiro20051212/Takamasa-Yakata.html)」とされています.

高正の子,高朝の居城は,愛知県豊田市畝部西町城ヶ堀にある「国江城(http://www.geocities.jp/shiro20051212/Kunie-jo.html)」とされています.

問題となるのが「神谷」の由来です.
多くの方々は,「三河国額田郡神谷村」を由来とすると記載しておりますが,「神谷氏系譜」には「三州(三河国)八名郡神谷村」としており,寺の石碑に「神谷氏・・・三州八名郡神谷村」と刻まれているとの既述もあります.

先ずは,「三河国八名郡神谷村」について,東京にある「神谷町」の由来は,「三河国八名郡神谷村」が通説です.

また,「三河国八名郡神谷村」には,伊勢神宮の荘園である「神谷御厨(http://www.maibun.com/top/modules/wordpress/index.php?p=83)」があったとの事から,このあたりに「神谷」の地名が存在した事は間違いないと考えています.

「三河国額田郡神谷村」に関しては,私の検索では,額田郡に「神谷村」の存在が確認できず,今後の調査に委ねる事にします.

しかし,神谷高正が新田義貞に属して軍功を挙げ領した和田村〔岡崎市上和田町〕が「額田郡」にあり,「神谷氏」の出身地が「三河国額田郡」である事は,間違いないと考えています.

投稿: 神谷誠 | 2016/05/26 09:27

高浜市の神谷一族.

高浜市で,最も多い姓は「神谷」(8.6%)となっています.

高浜の歴史と産業によると,「高浜村には古河公方足利成氏の家臣であった一六家と称するものがあり、古河没落後この地へ移り住んだと伝えている。一六家は石原・山本・石川・都築・神谷らである。」としています.
http://www.katch.ne.jp/~sano/dobuita/newpage12.htm

即ち,高浜の「神谷氏」は古河公方「足利成氏」の家臣であり,古河公方の没落後に高浜へ移り住み,その地で最も繁栄した一族だという事になります.

室町時代の寛正6年(1465年),三河国と古河公方「足利成氏」との関わりのある一揆が,額田郡に起こりました.

「額田郡一揆」です.

この戦いは,古河公方の関わる一揆側が鎮圧され終息する事となります.

ここからは推測となりますが,この争いの後に,一揆側として「足利成氏」に従った「神谷氏」は高浜の地に移り住んだという事なのでしょうか?

次に,高浜について,高浜は「三河国碧海郡高浜村」との記述が多く見られるのですが,古くは「三河国幡豆郡大浜郷高浜村」であったとの事で,当時の高浜は「幡豆郡」であったのではないかと考えられます.

「神谷氏系譜」には,文明17年(1485年)に亡くなった神谷高元(高朝の孫)の弟に,神谷高康があり,名前の下の記述には「在軍受傷隠於三州八名郡子孫多幡豆郡」となっています.

額田郡一揆が寛正6年(1465年)ですから,神谷高康は一揆に参加したのかもしれませんね.

また,ここにも「三州八名郡」の名が出てきます.やはり,神谷の本貫地は,「三州八名郡」の「神谷村」なのでしょうか?

「子孫多幡豆郡」が,「三河国幡豆郡大浜郷高浜村」での子孫繁栄に繋がっているのだとしたら,大変面白いですね.

このページを閲覧している方で,高浜市に住んでおり,詳しい事をお知りの方がいらっしゃいましたら,ご意見を宜しくお願いします.

私の旧本籍地は愛知県高浜市碧海町三丁目(一度も住んだ事はない)ですが,現在は住上州です.

投稿: 神谷誠 | 2016/05/26 11:30

神谷誠様

詳しいご説明ありがとうございます。
いろいろなことがわかりました。
関東に住んでいるので三河のことは全く疎いのですが、八名郡を調べると明治11年に新設と書かれていました。さらにその昔にも八名郡があったのでしょうか。

投稿: 神谷道彰 | 2016/05/26 23:38

神谷道彰様
引き続きコメントありがとうございました。
調べるといろいろなことが分かってくるものなのですね。
高正公500年忌法要は、子孫によって営まれたのでしょうか。今でも近くに縁者がいらっしゃるのでしょうか。

投稿: 神谷明彦 | 2016/05/27 10:56

神谷誠様
コメントありがとうございます。
文章の書き振りからして、教職をされておられたのかと拝察いたしました。

知多半島の祭りはほとんどが山車(それも結構立派なものです)が出るのですが、東浦のみは駆け馬です。これは衣浦湾の対岸の高浜から伝わってきたものと思われます。それから地元のソウルフードである鶏飯も高浜と共通しています。東浦町の神谷は分布が狭くあまり多くはありませんが、おそらく高浜と同じ流れではないかと思います。

この地方の古い城郭について砦的なものまで含めて網羅的に調べているページがあるのには驚きました。
http://www.geocities.jp/shiro20051212/index.html

集めた情報を事実(裏付けのあるもの)と推測に整理したうえで、全体のストーリーが浮き上がってくるとすばらしいと思います。

投稿: 神谷明彦 | 2016/05/27 11:13

多くの方々が、神谷のルーツについて、このページに書き込みを寄せてくださり、だんだん情報が集まってくるのに驚くとともに、ありがたく感じています。
少し複雑になってきましたが、楽しく拝見しています。今後とも、情報交換の場に使っていただければと思います。
(もし時間があれば、一度、情報を整理すると良いかもしれないと感じるようになりました。)

投稿: 神谷明彦 | 2016/05/27 11:23

高正公500年忌法要は祭主は宇都宮三郎、挨拶は神谷大周により営まれました。

宇都宮三郎は尾張藩士神谷半右衛門義重の三男として生まれ、幼名は銀次郎。後に宇都宮姓に改姓。
沢山の痛快なエピソードがあることをネットで知りました。
ぜひ検索して、ご覧ください。
元三河鉄道社長で、ハチブドー酒や神谷バーの創設者でもある神谷伝兵衛氏と懇意だったようです。

近年幸福寺本堂改修の折、旧本堂の奥から500年忌法要で神谷大周が遺した表白文書が見つかり、600年忌法要で公開されたようです。

投稿: 神谷道彰 | 2016/05/27 23:27

神谷道彰様

私自身も,歴史の専門家ではありませんので,時代により同じ名称が他で流用されたり,また,違う所で突然出てきたりと,混乱を来たす事が多いです.

地名などは,その地名がなくなったり,また,他の場所で同じ地名があったりと,混乱を来たす事も多々あり,それ以前に,地形自体が変わってしまったりと,本当に理解に苦しみます.

ここで,「郡」に関してです.

元々,「郡」は大宝律令において規定され,その地理的区分を幕末まで流用してきました.

律令体制下における「八名郡」の成立は,8世紀頃と言われています.

「郡」の仕組みが大きく変わったのは明治維新後です.郡区町村編制法により,行政区画として「郡」が規定され,その法律に基づいて明治11年に発足したのが「八名郡」という事になります.

古代からの「郡」と,明治の「郡」とは区別して考えないといけない様です.

歴史って,本当に奥が深いですよね.

このブログにアップする事が適当かどうかの判断をしかねるのですが,今後,各地に散らばった神谷氏の軌跡みたいなものを,アップしたいと考えています.

投稿: 神谷誠 | 2016/05/30 09:03

神谷道彰様、神谷誠様
私自身、神谷姓のルーツについて多くを知りませんが、思いがけず、たくさんの方が情報をお寄せくださり、感謝いたしてしております。
やはり、自分のルーツを知りたいと思うのは共通の願望でしょうか。先日も、人類のルーツをテーマにサイエンス講座を開催したところ、いつになく多くの参加者がありました。
http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2016/06/post-8dd7.html

投稿: 神谷明彦 | 2016/06/08 16:35

神谷明彦町長殿

>「神谷」という名字は、愛知県の西三河地方に多く、謂れに依れば、平家の落人の末裔?だそうです。
>家紋も一応、もっともらしく揚羽蝶になっています。

私の祖父の父親までは直系で系図があり、青色コピーを幾度も30年前に見て覚えております。

(系図に記載されていた内容)
・源姓神谷氏で初代は神谷新七郎(=源頼政の孫の一人の源仲忠)
・宇治の戦で破れ、落人となり3つの荘園の一つの若狭の国の神谷の荘に逃げて神谷姓を名乗る
・新七郎という人は10人位先祖におり、次に多いのが親十郎
・関が原の頃は同じ清和源氏の吉良家の家臣だった
・関が原の戦いで手柄をたて、徳川幕府では旗本4千石の直参旗本となる
・しかし息子が上司を切ってお家は断絶するが、後に再興し3百石の旗本として復帰
・明治維新では徳川慶喜公の御右筆の一人として静岡へいく
・静岡に本家が居て、愛知にも分家がいる

(補足)
・戦時の軍旗は揚羽蝶で家紋は向い蝶
・保元と平治の乱の時は平家側について生き延び、平家の中で源氏最高位の従三位になった
(平家の蝶紋を使用しているのはこの経緯が原因と思われる)
・若狭の国の神谷の荘は現在は神谷(こうだに)と呼ばれている
・祖父の父親は確か栄太郎で祖父は「たもつ」
・系図の原本は静岡の神谷家本家が大切保管しているはずである

投稿: 神谷亥の孫 | 2016/10/17 20:26

本日、秋田書店の「新編 姓氏家系辞書」で下記を確認しました。
・源頼光流れの清和源氏
・源頼政の六男源仲忠が若狭の神谷荘に住して称す
・家紋は向かい蝶

大体、私の記憶通りでした。 よって以降の系図もほぼ正しいと思います。
しかし2大妖怪(酒天童子、鵺)を倒した2大武将の末裔とは。。

投稿: 神谷亥の孫 | 2016/10/18 20:51

やっと実家で祖父の遺品の中から昭和51年の青色コピーを見つけました。

【神谷家の系図】 A3で8枚
(1枚目)系図
(2枚目)源姓神谷氏 家紋:浮線蝶 旗紋:丸之内上字 ?紋:亀之内揚羽蝶
     清和天皇→ 貞純親王→ 経基王→
(3枚目)源満仲→ 源頼光→ 頼国→ 頼綱→ 頼資→ 仲正→
     源頼政:宇治平等院自害 75歳 → 
(4枚目)※頼政の子供12人
1.仲綱:父同戦死
2.国政:父兄同戦死
3.兼綱:宇治戦死
4.近家:養子
5.頼兼:宇治戦死
6.廣綱
7.仲忠:①神谷新七郎蔵人大夫従五位下
    若狭国住〒神谷庄故為称号sun 宇治戦死→
8.頼尊
9.敬尊
10.女子:中務大輔経業室
11.女子:二条院仕女号讃岐歌人
12.女子:隆保郷内室

②忠廣:神谷新十郎舎人頭 父同戦死→③廣行:移〒三河国額田郡sun
④忠国:神谷新七郎→ ⑤忠光→
⑥忠元:属〒吉良上野→ ⑦持範→ ⑧範忠→神谷五郎左エ門→
(8枚目)
・・・→神谷恒次郎(表御右筆、記)

投稿: 神谷亥の孫 | 2016/10/20 23:45

神谷亥の孫様
コメントありがとうございます。
あちこちに家系譜が残っているものです。皆さんが諸説、書いてくださって、だんだん情報が蓄積してきました。この中で名前が同じ方がいらして、家系がつながったりすると、一連の流れが整理できて面白いと思います。

投稿: 神谷明彦 | 2016/10/25 00:05

(神谷 | 2012/09/17)
岡崎と安城の間に流れている矢作川の近くに神谷村があり、その村出身者が神谷の性を名乗っているとの事でした。
(神谷道彰 | 2016/05/25)
南北朝時代、新田義貞の傘下の宇都宮泰藤が、下野から三河国上和田に来住。上和田城を築城。三河国額田郡神谷村(岡崎駅から西に1km弱の妙國寺付近)
で生まれた孫の高正は、1374年泰藤の命で碧海郡阿弥陀堂村(豊田市畝部西町)に移住。姓を神谷村に因み神谷とした。

上記のお二人の神谷様にコメントします。
私の手許にあります源姓神谷氏系図では1180年の「以仁王の乱」、「宇治平等院の戦い」の記載に加えて、「三河国額田郡」や「矢作川」も登場します。

初代の源仲忠(神谷新七郎)は源頼政の第7子とあり、1180年時点で若狭の国の「神谷庄」に住んでいたので、神谷氏と号したあります。因って「神谷」は庄園名です。
3代の廣行は寛喜元年(1229年)7月に「三河国額田郡」に移りました
12代の忠治(神谷五郎左エ門)は永正元年(1506年)に今川家於「矢作川合戦」で戦死
14代忠次(神谷親七郎)は元亀元年(1570年)に援織田信長、天正9年(1601年)に高天神城攻めで2名生捕し4千石旗本になるも晩年息子の不祥事でお家断絶
16代忠経(神谷庄右エ門)は松平伊豆守に従う(お家再興?)
20代正意(神谷恒次郎)は表御右筆で本系図の筆記者、徳川慶喜公にお供して駿府へ移りました

投稿: 神谷亥の孫 | 2016/10/25 20:22

神谷亥の孫様
ありがとうございます。
簡単にまとめていただいた感じでしょうか。

投稿: 神谷明彦 | 2016/11/04 08:38

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