天野秀昭氏講演会と天白プレーパーク
名古屋市天白区の天白生涯学習センターで開かれた羽根木プレーパークの初代プレーリーダー天野秀昭さんの講演会に行ってきました。
講師の天野秀昭さんのプロフィール
NPO法人日本冒険遊び場づくり協会理事
NPO法人プレーパークせたがや理事
1958年、東京葛飾区生れ。1980年、誕生したばかりの日本で初の常設の冒険遊び場「羽根木プレーパーク」に常駐するボランティアとして派遣され、翌年、住民運動によりプレーリーダーを生業とする。
以来、子どもや地域の親たちに育てられつつ、区内の新しいプレーパーク開設に地域住民と共に取り組む。
遊びの価値を社会に広めるために活動し、東京都や国土交通省、内閣府などの委員も歴任、その価値を現場の目から訴えてきた。
また、これも日本初となった子ども専用の電話「せたがやチャイルドライン」を開設し運営に当たった。
講演の要旨
●鬼ごっこは遊びか?
したくないのにしなさいと言われたら、それは遊びと言えるか。
遊びは行為ではなく動機。主役は本人以外にない。
●冒険遊び場(プレーパーク)の発祥は、1943年、デンマーク、コペンハーゲン郊外のエンドラップ。こぎれいな遊び場よりもガラクタが転がる空地や資材置き場のほうが子どもが生き生きと遊ぶという事実に気づく。この考えを基に、初代プレーリーダー、ジョン・ベルテルセンと子どもたちによって「エンドラップ廃材遊び場」がつくられた。
戦後、イギリスをはじめヨーロッパ各地に冒険遊び場づくりが広まり、現在では1,000ヵ所ほどになった。
日本では1970年代にイギリスの造園家アレン卿夫人の著書「都市の遊び場」が紹介され、冒険遊び場づくりが草の根的に広がった。
現在活動しているのは約230団体。週5日以上活動しているところは14箇所。
世田谷の場合は、住民と行政が一緒に取り組んでいる。場所と資金は行政、管理が住民。責任を住民が約束。(住民がやらないと面白い遊びにならない。)今、プレーリーダーをしてかろうじて飯が食える状態。
とにかくプレーリーダーを置くのが大変だ。
最近の子どもが遊べなくなったのは、遊ぶ環境がおかしくなったから。本来、面白い≒リスクをとることだ。
●プレーパークでは、既存の遊具は置かない。すべて手作り遊具。遊具は不用品で何とでもなる。いらなくなったら子どもが持って帰る。
公園に穴を掘ったっていい。
今まで羽根木プレーパークで掘った最大の穴(4m×4m×4m)は、中学生と高校生が夕方~夜10時頃まで1週間かけてつくった。
今まで掘った最深の穴(地球の裏側にちなんで、通称「ブラジル穴」)は、1.5φ×6m。子どもたちに、酸素は大丈夫かと聞いたら火のついたロウソクをセンサー代わりに使った。次に管理室から電気掃除機と長い筒を持ち出して、換気装置として使った。掃除機が壊れるまで掘ったら6mに達した。
プレーリーダーは「リーダー」というけど、指導者ではない。良い遊びと悪い遊びを大人が判断するのは主客逆転。大人が子どものためにやろうとすることのほとんどは、子どもの力をそぐことになっている。
●遊びの三大形容詞はAKUである。
A あぶない
K きたない
U うるさい
子ども(赤ちゃん)はもともと寝たきり。それが注意しても勝手にハイハイして、歩くことをやめないから、痛い目に遭いながらさまざまなことを獲得していく。
大人にとっても、やってみたい遊びは生きる意欲につながる。
プレーパークに限らず、AKUを面白いと言える社会にしたいと思う。
最近「子どもがうるさいから公園の噴水を止めてくれ」と言う苦情があった。子どもの歓声が聞こえてくると嬉しくなるのが正常な世の中ではないだろうか。
少子化の最大の理由は、大人が子どもを嫌いになったことにあるのではないだろうか。
知らない子どもを叱れるか? 知らない子どもをかわいいと思えるのが前提
「迷惑をかけるな!」というけれど、迷惑とは何か? 「迷惑」とは行為ではなく、人同士の関係性だ。(たとえば、親しき仲にも… or お互いさま…)
「自立しろ!」というけれど、果たして都市生活者は1人で生きていけるのか。
人への感謝こそ子どもに伝えるべきことだと思う。
●公園には3つのタイプがある
スポーツ型
散策型
庭園型(鑑賞用)
上記はいずれも完成品を使うもの。それに対してプレーパークは運営型
世田谷区羽根木公園7hのうちの3000㎡を使ってプレーパークを始めたところ、公園の木を折る、ペンキで色を塗る、川をつくる、ダムをつくる・・・等々で最初の3ヵ月はしょっちゅう管理事務所に呼び出された。プレーパークを見る人も初めてだったので住民から苦情がいっぱいあった。本当にわかってもらうべき相手は、役所ではなくて住民だった。
子どもの遊ぶ環境をいかに豊かにするかは、住民・地域の問題だ。
プレーパークのことに関して、いままで行政に責任を負わせたことはない。行政に苦情が行ってもプレーパークに戻してもらっている。住民自治の問題と捉えているからだ。
●AKU(悪?)は、やってみたいこと。快を感じる、予感する。それは、喜怒哀楽など普遍的な情動の世界であり、子どもの世界に通じるものだ。
善悪・正誤などの価値観は、立場や時代で基準が変わる。判断する自分がどこにいるか、問題と感じる自分自身の問題だ。
●子どもとは?
少年・・・18歳未満
子ども性・・・生涯持ち続けられる
子ども期・・・子ども性を発揮できる期間
最近、子ども期が減っているのではないだろうか。やりたくないことをやらされる、不快が増えると、子どもは無意識に情動を働かせないようにする。
そして、無感動になる。気持ちが動いてしまわないように、関心を深く持たなくなってしまう。「愛も憎も関心が前提」
塾もスポーツ少年団も大人の価値の押し付けだと思う。
子どもは、「自然な気持ちを表している君が面白い」と大人に承認してもらうことがうれしい。これでいいんだと安心すると、情動に根が生える。そのあとなら大人は子どもに価値観を伝えることができる。
遊びは魂の情動。外傷は見えるが魂を売るのは(心のゲガは)見えないから、大人は気がつかない。
●日本の乳幼児・子育て施策は室内で行われてきた。体力は意思でコントロールできるが、見える聞こえるなどの普段の人間の活動は自律神経がつかさどっている。自律神経は意思では鍛えられない。屋内の環境では(温度も一定など)刺激が少なすぎる。基礎体力の涵養も含めて、子育ては屋外で行うべきだ。屋外で遊んで育った子は体の動きが違う。
●学校・・・教育、教えて育てる。どちらかと言えば主体は、大人、国家。
遊育・・・遊ぶ、育つ。主体は本人。
「子どもがやってみたいこと」と大人がメッセージとして「やって欲しいこと」の重なり部分を刺激して大きくしていくことが大切。
学校は同年齢しか集まっていないのが特殊なところ。できるできないの競争になりがち。異年齢で、互いに伸びようとする環境が大切。
いっせい行動・団体行動はプレーパークではありえない。
物を壊すのも遊びの一種。壊していいものがどれだけあるかが、子どもの環境の豊かさ指標になると思う。
講演が終わってから、天白生涯学習センターに隣接する天白公園内にある「てんぱくプレーパーク」をのぞいてきました。
落葉が散り敷いて、さながらオレンジ色の絨毯になっている公園内の通路
プレーパークの広場と小屋のあるところには、予定表や行事案内の掲示板が。
「自分の責任で自由に遊ぶ」の看板。小屋の裏は道具の倉庫になっている。
小屋の裏側は道具の倉庫になっている。廃材などの資材で好きなものが作れる。
広場の裏手はちょっとした里山。斜面に掘った穴で遊んでいる小さい子どもたちも。
てんぱくプレーパーク
火~金曜日(10~17時)専属プレーリーダー1人
発足は1998年から(その10年ほど前から住民の活動はあった。)
市は、小屋、電気代など年間36,000円を負担、あとは、会費、カンパで運営。
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コメント
"1980年、誕生したばかりの日本で初の常設の冒険遊び場「羽根木プレーパーク」"
知らないだけで 先駆者はずっと、ずーーーーっと以前に問題を意識して、かつ実践していたのですね。このような人たちの努力が日本中に大きな力を与え続けてほしいと願います。
投稿: とだ-k | 2014/11/11 21:39
理想の遊び場は「資材置き場」。まさにその通りだと思います。大人が、社会が、子どもを嫌いになっているというのも、最近、公園や保育園が迷惑施設扱いされているのを見るとわかるような気がしてきます。
スリルがないと面白くないし、危険予知の能力も育ちません。
昔のように、自己責任で自由に外で遊べるようにしたいものです。そのためには地域のあたたかい見守りの目も欲しいところです。
投稿: 神谷明彦 | 2014/11/15 18:20