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2009/11/04

巨大ダムの建設中止問題について、読者とのメールのやりとり

巨大ダムの建設中止について、ある読者の方からメールをいただきました。ご本人から了解を得た上で紹介させていただくことにしました。

私は、9月定例議会報告の冒頭で次のように書きました。

 8月30日の衆議院選挙で大どんでん返しが起こりました。選挙による政権交代が実現して、日本もようやく民主主義先進国の仲間入りができたと言ってよいと思います。
 ただし、多くの人が民主党そのものを支持したわけではなさそうです。あとは、マニフェストで約束したとおり、変えるべきをどれだけ変えられるか。また、マニフェストの中には必ずしも賛成ではなかった政策もあるはず。こういったものが、いかに将来にわたって実効性のあるものに直せるかが、大方の関心事ではなかろうかと思います。
 私は、無駄な公共事業の象徴として注目されている群馬県の八ッ場(やんば)ダムや、愛知県で言えば木曽川水系導水路計画や設楽ダムについては即刻止めるべきだと思います。
 一方、一律“高校学費無料化”は、やる気があって援助が必要な生徒の奨学金を充実すれば良い話だし。全国一律に“子ども手当”を配るよりは、足りない保育園をまず充実させなければならないだろうし。“高速道路無料化”にいたっては、利用のない道路はいざ知らず、東名名神など都市部の混雑路線は逆にロードプライシング(混雑を緩和するための課金)をしなければならないくらいだと思います。

これに対して、読者(以下Yさん)から次のようなお便りをいただきました。(Yさんのご実家はダムの計画地にあります。)

 政権交代によって様々な変化が起きようとしています。その中のひとつに議会報告の冒頭にもあったダム建設問題があります。
 ただ、間接的(?)ステークホルダーである私には、このダム問題が単なる構造物建設の是非として語られている風潮に違和感を感じざるを得ません。ダムの必要性云々については、様々な方面から議論の余地はあることは事実でしょう。しかしながら、通常の施設構造物と異なり、その事業に否応なく関与せざるを得ない人が相当数存在することも確かであり、問題を複雑化する要因になっています。それに振り回される人々は、どこに向かえばいいのでしょうか?
 ダム建設事業は、まるで政治的意思が大きな怪物へと姿を変えて地域を呑み込んで生きていく様であり、もはやその怪物に生活全てを委ねることを強いられた人々は、その怪物が死滅することによって、生きる術を失うことになりかねません。その怪物が完全に息の根を止める前に、これまでその支配下にあった人々をどのように救うのか、まさにその点が問われなければなりません。実際のところ、地域社会はダム建設推進により衰退を余儀なくされ、もはや簡単には修復の効かない段階にまできて、さらに中止により決定的ともいえる一撃を食らわされかねない状態にあります。そうした議論は、既に始まっているはずですが、その答えが納得の行く形で具現化されるまでは、もっと多くの時間が必要でしょう。

上記のYさんのお便りに対する私の返信です。

 ダムの件については、私は地元の当事者ではありませんので、思いやりのない失礼な考えしか持ち合わせていないかもしれません。計画地では、地元の当事者でなければうかがい知れない、深い思いがあるのだろうと想像します。何十年も権力によって、あるときは金、あるときは人間関係など、さまざまな面から翻弄されて、地元の将来どうやって立ち行くかを考えた上で、もうそれしかないと決断された、その権力の側がやっぱりやめようとなれば、今までの時間は一体何だったのだろうとやり場のない怒りがこみ上げてくるであろうことは想像に難くありません。
 しかし、ダム建設中止についてのやり取りの中で、感情論が是非論に絡んでくることには違和感を感じます。叱られるのを覚悟の上で、部外者が思ったことを書かせて頂きます。
 事実とは言え、ダムのニーズは本来恩恵を受けるであろう下流域にあるはずなのですが、地域振興という懐柔策をばら撒いたばかりに、計画地の人々がダム事業のユーザーになってしまったのは、おかしなことだと思います。
 本来、事業はニーズによって行われたり行われなくなったりするものだと思いますが、今問題になっている大型公共事業の多くは、もともとニーズが希薄、あるいはその後ニーズが薄れたものです。常識から考えれば、ニーズがなくなった時点で事業を止めるのは当然だと思います。計画地の住民のことを考えて、事業を継続せざるを得ないと言う論理は、ありえないと思います。
 もちろん、計画地の人々が受けてきた苦痛をどう見積もるかは難問としても、計画地の苦痛と損失を取り除く何らかの方策は不可欠だと思います。しかし、本来のユーザーにとっても、計画地の人々にとっても要らないものを、再度混乱するのがいやだからと造り続けることは、だれの得にもならないと思います。私は、ダムができて、レークサイドの一大リゾートとして地元が豊かになったなどという話しは聞いたことはありません。
 地元にとっても、事業を継続する先に何か希望があるかと言えば、せいぜいダム関連の交付金(地域振興費
http://www.pref.aichi.jp/0000024057.html)で町役場が一時潤うだけではないでしょうか。地元が豊かになる仕組みを住民自らが創り出さない限りは、もらったお金も、従来型の道路整備や農業土木、箱物造りに消えていくだけではないでしょうか。
 ひと事のような冷たい言い方になってしまいましたが、外から見ていて、とてもバラ色の将来があるとは思えません。

 私は、ダムがなくても上流地域は下流域に恩恵をもたらしているのですから、ダムに協力したから地域振興費を出すのではなく、ダムがなくても森林の保全や開発抑制の見返りとして相当の交付金を払うべきではないかと思います。それも、その交付金を利用度の低い道路や箱物に使ってしまうのではなく、住民サービスの運営に役立ててはどうかと思います。そうすれば、地元に雇用を生みながらユニバーサルなサービスを提供するという価値創造も夢ではないような気がします。

再びYさんからのお便りです。

 前回お送りしたメールは、少々抽象的でしたが、個人的には神谷さんの意見に賛成なのです。
私も、土木技術者また科学者の末席にいるものとして、ダムの是非問題は地域住民の感情とは切り離すべきと考えています。

 仰るとおり、基本的にダムは地域住民にとって必要なものではなく、下流域の受益者にとって必要なものです(建設工事で恩恵を被る類の人々はここでは考慮していません)。なので、そのニーズが希薄且つ費用対効果が見込めない、さらには自然・社会環境への影響が大ともなれば、本来は建設を推進する理由はないはずです。

 私が、違和感を感じているのは政策決定後の対応策が、あまりに不透明であることです。換言すれば、現在のダムの議論で大きく欠如しているのは、「建設対象地周辺の再生を前提として」、ダム建設凍結・中止が決定されていないことです。

 例えば、過去にあれほど反対していた八ッ場ダムの地元住民は、何故、建設推進に固執するのでしょうか?
 元々彼らにはダムは必要なかったはずです。ところが時の政策、政治的圧力、業界の利権等、時代の流れの中で様々な要因があったかもしれませんが、抗うことができず、建設を受け入れたわけです。建設を受け入れることにより、住民自らの生計方針や将来設計を大きく変更しなければならず、地元は「ダムと共に生きる」ことを余儀なくされたのです。
 「ダム建設」は彼らの生活の大前提となり、土地に残る人々は「ダム」を糧とする方法を模索しなければならなかったのです。そのように時の政治、行政が強いたのです。そうしてあるはずの無いまたは歪んだ将来像を、長い年月をかけて無理にでも納得して生きていくことを選ばなければならなかったわけです。

 そこにまさに青天の霹靂のごとく、中止・凍結の話が持ち上がれば、慌てふためくのも無理はありません。
 感情論になりますが、私が想像するに、彼ら住民にとってダムの是非は問題ではなく、すがって生きていかなければならない「ダム」を取り上げられ、その代わりとなるものがない、若しくは提示されないことに大きな不満、苛立ちそして不安を感じているのだと思います。地元も巨額を投じる不要な施設を推進することには、心の底では抵抗感を感じていることと思います。しかしながら、その代わりとなるものが議論のテーブル上に置かれていない以上、「ダム」にすがるしかないのです。
 また、多くの地元住民が無用の長物であると分かっていても、長年苦痛を受けながらも共に人生を歩んできた証が「ダム」であり、地元住民の存在の証なのです。それを取り上げられることは、これまでの闘争、議論、苦痛がなんだったのか、その存在の否定にも等しいとさえ思うのです。また、地元のために投入されると信じてきた税金が他の地域、他の分野に再分配され、地元とはかけ離れた人々が恩恵を受ける一方、地元住民には苦痛の思い出しか残らないと思えてきてしまうのです。

 だからといって、「ダム建設推進」と地元が声を張り上げるのを、私も良しとするわけではありません。そうさせてしまった政府のアプローチの仕方にも問題があったのだと思います。
 「ダムが必要か不要なのか」ということを技術論だけで議論すれば、恐らくは凍結・中止の対象となったダムは多くの観点からも不要という結果になるかもしれません。全くそのとおりです。無駄な税金を投入する必要もありません。

 繰り返しますが、恐らく直接受益者でない地元住民は、ダム建設自体を望んでいるのではないと思います。これまでの苦労が無駄とならないような、「ダム」の代わりとなる政策、計画を望んでいるのだと思います。地元の建設業者ですらそうかもしれません。ダム建設がなくとも、業者の技術力に適した地域のインフラ整備事業で生活が営めるのならば、無理にダム建設を求めることはないかもしれません。

 一方で、ダムサイトであるが故に被ってきた地域社会の崩壊、住民の苦痛に対して、政府は何を提示できるのか、どのような再生のためのインセンティブを与えることができるのか?
是非論から判断して、仮に「非」であるならば、何十年も「是」を強いられてきた人々に対して、どのような対策が求められるのか?
そうした準備を十分にしてこそ、中止・凍結が決定されるべきだと思うのです。

 長くなりましたが、地元と現政府には、冷静にそして両者共に十分に納得のゆく対話と対策の実施を願わずに入られません。
 一方的な意見と感じられたかもしれませんが、お聞きいただきありがとうございます。

再度、私からYさんへの返信です。

 ありがとうございました。よくわかりました。
至極まっとうなご意見で、説得力を感じます。
差し支えなければ、このあたりのやりとりをブログで紹介してもいいですか?

Yさんからの返信です。

 連絡いただいたブログでの紹介ですが、私としては全く構いません。
 掲載にあたり、お断りしておかなければならないことがひとつだけあります。実家が移転対象地とは言え、中学校卒業以来、実家では生活しておりません。したがって、今回のやり取りはあくまで一個人の見解であり、決して住民を代表するものではないこと、ご配慮いただきたいと思います。
 ダム建設の是非は様々な角度から議論されることは、決して悪いことではありません。国の経済、地域の発展、自然環境、無形文化財保護等々、様々です。
 ただし、ダム建設により生活全てに直接的影響を受ける人々への配慮は決して疎かにしてはならないと思うのです。

 私も海外業務の中で、環境影響評価を担当したことがあります。直接担当でなくとも、環境影響評価が求められるプロジェクトに参画したことは幾度もあります。そうした折には、口にこそ出しませんが必ずと言っていいほど実家のことを思い出します。特に住民移転が絡む場合は他人事に思えなくなることもあります。プランニングの際は、もう少しドライでないといけないのかも知れませんね。

・・・以下略

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