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2009/11/01

ふるさと散歩 ~生路 「日本一だった生路の三白巡り」~

読者から『ふるさと散歩生路「日本一だった生路の三白巡り」』と題して、紀行文をいただきました。

 「hurusatosanpo-ikuji.pdf」をダウンロード

10月24日(土)第4回東浦ふるさと散歩は生路地区で実施した。
事前の申し込みは20名だったが、当日は30名の方が参加して
くれて大盛況でした。
 
コース 9.30"公民館....天満宮....伊久智神社....観音寺....丁石
    ....常照寺....生路井....神後院....原田酒造見学....
    機屋跡....11.40"公民館
 
コースには時期的に少し早かったが、造り酒屋の見学も含めて「生路
の三白」である、生道塩、白砂糖、白木綿を生んだ昔に思いをはせる
とともに、すばらしい郷土の歴史を再認識する一日になりました。
 
1 生道塩(いくじしお)の神様を祀る伊久智神社
 1454年に氏子の長坂近江守、長坂伊豆守、長坂将監らが再建したという棟札が現存しています。祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめ みこと)...安産の神と塩土老翁(しおつちのおじ)...延喜式の生道塩の神様。
 生路には「神塩」を造る為の御神田が置かれていました。塩自体を神饌(お供え)ではなく、「塩霊(神様)」としており、とても珍しいことです。
この塩は「生道塩(いくじしお)」の名前がつけられ平安時代の927年に尾張国、生道郷から都に送り、京都の東寺(教王護国寺)のお供えものとした記録が「延喜式(えんぎしき)」という書物(法令集)に残されています。
尾張国の生道郷は東浦町の生路しかありません、そして、記録にでてくる日本で最初の塩ということになります。
 さらに、境内には神武天皇遥拝所があります、つまり、ここでお参りをすれば良橿原神宮でお参りをしたのと同じことになります。そして、社殿北側には樹齢400年~500年を数える楠の大木が並び、大楠の森として町指定の天然記念物となっています。そのうえ、神楽も東浦へ最初に入ったのが生路とされ町指定の民族芸能になっています。F5192f2f109a440b843d577a076c4abfiku
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
生路神社でガイドする私です
 
2 村が建立した福聚山 観音寺 
 寛文3年(1663)に「生路村中として創建ス」と尾張徇行記という書に書かれています。そのため檀家はありません、今は常照寺と神後院が交替で管理しています。
 現在では知多四国10番札所として知られ、多くの方がお参りに訪れています。
 
3 生路山 常照寺
 享禄元年(1528)創建と伝えられる曹洞宗のお寺で、元は乾坤院の末寺でした。しかし、1491年の書物「梅花無尽蔵」に寺の名前が読まれており、それより古いといえます。ここの檀家は長坂性が圧倒的に多いのが特長。
 
4 生路の地名の元になった「生路井」
 地元では「森井戸」と呼ばれてきました、今も隣組の3北組と3南組の人々によて迎春準備と3月に祭事を催し、守護にあたっています。
東浦の民話ではこの生路井について次のように紹介されています......
 昔、日本武尊が東国征伐の途中、この辺りを通りかかった時、暑さで喉が渇き土地の者に井戸を訪ねましたがありませんでした。こまった尊が山のふもとの湿った所を見つけて、弓のはずで突き立てると、そこから冷たい清水がこんこんと湧き出し、たちまち泉ができてしまいました。
 その後この泉は生路井と呼ばれ、村人の飲み水として利用されました。が、心の良くない人がこの水を飲もうとするとたちまち濁ってしまったといいます。人々はこの井戸を神の井戸として大切に祭りました。
 昔は水が流れ出してくる辺りを「井之口」といい、この辺りも井之口と呼ばれていました。それが時間の経過とともに井之口が井口、イクジとなり生道、生路幾地、伊久智などと書かれ村の名前になったと言われています。Afab20f45871467eac53433f4178f26ciku
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
生路井
 
5 白砂糖を作った原田喜左衛門の眠る神後院
 この寺も乾坤院の末寺で、明治初年に独立した寺となった。檀家は長坂以外の原田や神谷性が多い。
 この寺にはなんといっても日本初の白砂糖を作った人、庄屋だった原田喜左衛門の墓がある。地元の生路でもほとんど知られていないが、間違いなく彼は江戸時代の享保20年(1735)に尾張藩の奨励で他の2人と白砂糖作りを始め、喜左衛門が製造することに成功した。
 宝暦7年(1757)には「三盆砂糖」の名前をつけ、杉の曲げ物に詰めさらに桐の箱に入れて尾張徳川家より将軍家へ献上しました。これらは「尾張御留守日記。張州雑誌」に記録が残っています。これが二つ目の白です、日本で初めて白砂糖を作った人が生路の人だったのです、驚き以外のなにものでもありません。9830ab31c1f44334875292c374800d68iku
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
原田喜左衛門の墓
 
6 東浦唯一の造り酒屋「原田酒造」の見学
 今では東浦唯一の造り酒屋である原田酒造さんの見学をしました。東浦の酒造りの歴史を見ると、古くは古文書にその記録があることから、乾坤院では1580年頃に自家醸造していました。
 江戸時代になると幕府は酒に運上金をかけて、これを徴収するために緒川の澤田仁右衛門を知多郡支配人に任命しています。1754年になると酒の勝手造りを許可します、全国では灘をはじめとして酒造りが盛んになります。この頃緒川では塚本源左衛門が、江戸へ酒を積み出すのに自家用の船着場をもって商いをするなど、酒造業の隆盛振りがうかがえます。
 生路の原田家は代々製塩を家業としていましたが、酒造業も営んでいました。仕込みに伊久智神社の社辺に湧き出る亀井を使うことから、亀屋酒と呼ばれていました。
今回の見学は時期的に仕込みはまだでしたが、みなさん一生懸命説明に聞き入っていました。来年は丁度良い時期に見学できるように計画したいものです。
 
7 栄華を極めた織物工場の跡
 三つ目の白は「白木綿」の白です、東浦の一時代を支えたと言っても過言ではない織物業、それを示すように生路には都市銀行の「東海銀行」が、昭和25年8月7~昭和44年9月8日まで営業していた。織物会館の隣で木造モルタル仕上げの物に23名の行員が働いていました。
 しかし、現在織物業を生業としているのは東浦町で4軒、生路では1軒のみという。
織物工場の跡地の多くは住宅に、一部は病院、ゴルフ練習場、パチンコ屋となり、特長のあるのこぎり屋根の建物もわずかしか残っていない。
 昭和30年の知多地方の繊維工場分布は、半島の東地区半田、東浦に偏っていた。
その東浦は工場数、設備数など他市町にくらべてずば抜けた存在だった。ピークの昭和32年には、
 工場数 165軒   織機台数 18038台   従業員 5721人
従業員の8割は女性で、中学卒業のティーンエイジャーには親に代わって、社会教育や後期中等教育を受けさせる為に学校を開設した。国語、社会はもちろん作法、洋裁、和裁、料理などのカリキュラムが設けられました。そのうえいつかは故郷に帰ることも考えて農業実習まで組まれていました。
 しかし、繊維不況と同じくして平成4年に閉校するにいたりました。9a8cef67883a42aa9bc00cdc92e79243iku
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今は倉庫として活用されている工場
 
 こうした歴史を振り返りながら街を歩いてみると、まったく別の姿に生まれ変わった所と寂しい姿を残す所もありました。鉄道の南には新しい住宅が建ち並びました、でも狭い踏み切りのため街は分断されています。JRはもっともっと地域と供にあるべきなのに、踏み切り改良にはそっぽを向いているとしか思えません。

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