揚輝荘見学会
揚揮荘の内部を見学できるとお誘いがあったので行って来ました。
揚揮荘(表札は「揚煇荘」と書かれています)は、日泰寺から姫ヶ池通に至る覚王山の東斜面一帯約1万坪にあった松坂屋の初代社長伊藤次郎左衛門祐民氏の別邸です。別邸とは言っても、戦前からテニスコートや弓道場や野外ステージを備え、皇族・政・財・官の要人や文化人迎賓館、社交場として、また、アジアの留学生の寄宿生活を送る国際的なコミュニティとしての役割をはたしてきました。このあたりの高台は月見の名所だったことから陶淵明の四時の一節「秋月揚明輝」にちなんで揚揮荘と名付けられたと言われています。
完成当時(昭和14年頃)には池泉回遊式庭園の中に三十数棟の建築物が立ち並び、それらを結ぶ地下通路もあったそうです。その後の空襲やマンション開発を経て、現在残っているのは、分断された2箇所の敷地3千坪ほどと数棟の建物のみです。これらは、平成18年に名古屋市に寄贈され、歴史・文化遺産として、修復・保存・活用が図らることが期待されています。
かつての揚揮荘の敷地は分割され、伊藤家宅や月見ヶ丘マンション、松坂屋ストアなどが建っています。
今ではこのあたり一帯は高級住宅街ですが、かつては山崎川源流域の雑木林やため池や田畑のあった所でした。そんな里山だったところが昭和のはじめに開発されて、別荘や住宅に代わっていきました。昨今の強引に木を倒し、山を削り、谷を埋める力ずくの開発と違って、斜面やそこにある樹木など自然を生かした開発だったおかげで、この界隈は今でも比較的昔の面影が残っているのでしょう。
現在、北園が暫定的に公開されていて、要予約でガイドつき見学が行われています。北園を代表する建物は「伴華楼(バンガロウ)」です。1階の洋風建築の上に尾張徳川家から移築された2階の和室が乗っかった造りになっています。外壁のうろこ壁や市松模様の煙突がお洒落です。
1階応接間の梁には月見にちなんで餅つき兎のレリーフがあしらわれています。
2階洋室部分の暖炉には飛鳥時代の瓦が埋め込まれています。2階和室部分には屋久杉の縦目横目二枚重ねの欄間や廊下の無双窓など工夫が凝らされています。
2階和室部分には屋久杉の縦目横目二枚重ねの欄間や廊下の無双窓など工夫が凝らされています。今でも1月11日にはここで伊藤家の伝統行事「お帳とじ」(抽選で見学可能)が行われているそうです。
揚揮荘の設計者鈴木禎次は、名古屋の近代建築の巨匠で、鶴舞公園の噴水塔、旧東海銀行、旧松坂屋なども手掛けています。夏目漱石の義弟にあたり、雑司ヶ谷にある漱石の墓碑も彼の設計だそうです。
ところで、世間の狭さにびっくり。
案内をしていただいたNPOの方はどこかでお会いしたかと思ったら、偶然にも、うちのご近所にお住まいでした。建物の案内だけでなく、伊藤家や松坂屋の沿革についても説明をいただきました。
・・・織田信長の家臣だった初代伊藤祐道が名古屋城築城1年後の1611年に名古屋で呉服小間物商を始めます。その後江戸に進出、上野の松坂屋を買収し屋号をいとう松坂屋に改めます。そして15代祐民が株式会社化して近代百貨店が誕生します。店舗への土足入場やエレベーターガールを取り入れたのは松坂屋が始まりだったそうです。伊藤家の始めた両替所が伊藤銀行、東海銀行となり現在の三菱東京UFJ銀行につながっています・・・。
回遊式の庭園には、修学院離宮の千歳橋を模したと言われる「白雲橋」(音楽、舞踊などのイベントのステージにもなります)や、茶室「三賞亭」があります。
こちらは「聴松閣」と呼ばれる車寄せの付いた木造3階地下1階の賓館です。地下にはインド様式の彫刻を施したホールがあるそうですが、修復中で建物の中には入れませんでした。
となりには座敷や土蔵があります。現在の松坂屋本店の場所にあった屋敷を移築したもので、一時独身寮に使われていたこともあったそうです。庭の飛び石は、大島で椿油をとるのに使われていた石臼だそうです。旧伊藤銀行本店の壁面を飾っていた井桁に藤のマークが何気なく横たわっています。
揚揮荘の土塀。今でもマンションの外周などに揚揮荘の敷地の名残が残っています。
詳しくは”名古屋人urbanの気まぐれ奇行!”をおすすめします。http://www.geocities.jp/urbanivjp/youkisou.html
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