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2010/07/18

木曽川電源開発史

 7月17日に『流域生命シンポジウムin王滝村』に向かう途中のバスの中で、木曽川の電力開発についてのレクチャーを聴きました。電力開発の話し抜きに木曽川は語れません。

 日本の川はどこも大正期~戦後の高度成長期までに開発し尽くされた感があるが、木曽川ほど、包蔵水力が豊富な故に、また大消費地に近いが故に、早い段階から注目された河川も珍しい。ここで必ず登場するのは福沢桃介の名だ。彼は、名古屋電灯、そして大同電力の経営者として、精力的に木曽川の電源開発を進めた。彼が最初に手掛けた本格的な水力発電所は、岐阜県の八百津発電所(明治44年(1911年)竣工~昭和49年(1974年)廃止、現在は資料館)だ。
 開発はさらに上流の長野県にもおよび、大正8年に
賤母発電所、大正12年に読書発電所などが運転を開始した。そして、大正13年(1924年)には現在の岐阜県恵那市に日本最初の本格的なダム調整池式発電所である大井発電所(4.8万kW)を完成させた。
 昭和17年には木曽川の最上流部に当たる王滝川の
三浦ダムが完成し、最下流の今渡発電所(昭和14年(1939年)竣工)まで切れ目なく連続する20箇所以上の発電所群を築き上げるに至った。
 木曽川の水流は元来、奥地からの木材の切り出しなど水運に使われてきた経緯がある。木曽川が濃尾平野に出る谷口に、八百津というまちがあるが、津の名の通り、古くから木材の集散地だった。険しい山峡を通り抜けて流れが緩やかになった八百津で木材を筏に組み直していた。いまでも八百津には立派な造り酒屋や和菓子屋が残っていて当時の繁栄を偲ぶことができる。
 ダムを造れば川は分断される。桃介の電源開発は、この林業関係の既得権との争いだった。明治44年(1911年)には木曽川に沿って走る中央本線が全線開通している。中央線や森林鉄道など木曽川上流部への鉄道敷設は、発電所の建設資材を運ぶだけでなく、木材運搬の代替手段としても必要不可欠なものだった。
 こうして木曽川流域に次々と大型発電所が建設されていくわけだが、それに伴い、桃介は電力の需要開拓にも乗り出す。そのひとつが、大同製鋼の設立であり、また、関西圏への高圧送電であった。やがて木曽川でつくられた電力はもっぱら大消費地である大阪に送られるようになった。この名残で、現在も木曽川水系の中で木曽川本流の発電所は関西電力の管轄(飛騨川、揖斐川、長良川は中部電力)となっている。

※発電所の呼び名で面白いのは、読書(よみかき)発電所(大正12年(1923年)竣工、現在は国の重要文化財かつ現役)だ。旧読書村(昭和36年(1961年)から南木曽町)に建設されたのでこの呼び名になったのだが、読書村の村名の由来は、明治7年(1874年)に、与川(よかわ)・三留野(みどの)・柿其(かきぞれ)の3村合併の際に旧村の名前の頭文字を取って「よ・み・かき」としたのだそうだ。その当て字を「読書」としたのだが、読書きで身を立てるのだという明治の心意気だろうか。
 他に読み難い呼び名として賤母(しずも)発電所、三浦(みうれ)ダムなどがある。

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コメント

ご来館ありがとうございます。素晴らしいページをおつくり頂感激です、これからもより良い管理を心がけたいものと思っていますどうぞよろしく
             旧八百津発電所管理人

投稿: kk | 2011/08/11 20:51

こちらこそコメントありがとうございます。機会があれば、お訪ねしてご挨拶させていただきたいものです。

投稿: 神谷 | 2011/08/21 00:00

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