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2010/08/14

ふるさと散歩 ~緑豊かな「緒川新田」を歩く~

ふるさとガイドボランティアをされている読者から、”ふるさと散歩”の紀行文をいただきました。
以前は『日本一だった生路の三白巡り』http://kamiya-a.cocolog-nifty.com/turezure/2009/11/post-b769.htmlがテーマでしたが、今回は『緑豊かな緒川新田を歩く』です。

 ふるさと散歩 『緑豊かな「緒川新田」を歩く』     2010.7.24

 真夏の太陽が降り注ぐ7月24日(土)、今年度第三回のふるさと散歩を実施しました。熱中症も心配される暑さが続いており、参加が懸念されましたが37名の方の参加のもと、5班に分けて初めて緒川新田での「ふるさと散歩」が実現しました。私は2班を担当してJAから万栄教会--唐治屋敷の常夜灯‐‐八巻古窯跡‐‐北添墓地‐‐丸山.釜池‐‐東釜池‐‐山神社‐‐JAと回りました。

1 緒川新田の生い立ち
 東浦町内でありながらこれまではあまり交流がなかったのが緒川新田、しかし、今日では宅地開発が進み多くの住民が東浦町民となった。
 その歴史は、享保12年(1727 )に緒川本郷から7軒(安右衛門、万助、九右衛門、長九郎、久作 、太郎右衛門、利右衛門)が引っ越し、さらに同14年に5軒(助三郎 、八郎右衛門、治兵衛、又助、六右衛門)が引っ越しました。この12軒が緒川新田の草分け的な人たちで、唐治屋敷と釜池の両集落に住まいを構えた。
 現在の戸田益男さんは万助家の13代か14代の子孫、そして、戸田伊八さんは治兵衛家の子孫で、いずれも唐治屋敷在住。
 そして、村の中心であり村人たちの心の支えとなったのが「万栄教会」。名前に教会が付いているが、れっきとしたお寺さん。緒川の善導寺の檀徒、戸田万助さんが万栄庵を創設したのに始まる。要は緒川の本郷から遠いので、仏様を祀ってお参りをするために建てたもの。
 つまりは善導寺の出張所と思えばよい。この万栄教会は昭和57年に新田公民館ができるまで、集落で唯一の集会所であった。

2 唐治屋敷の常夜灯と図書館
 万栄教会の隣は山神社で道沿いにはJAがあり、この道を県道まで出ると左に南国風の建物のケーキ屋さんがあり、右はコンビニのサークルKがある。その交差点の手前にコンクリートの覆いに包まれてお地蔵さんがある。でもこれはお地蔵さんではなくて、道しるべだという。郷土資料館の鈴木先生から教わったのだが、よだれかけを取ると「右板山道 左おかわ道」と刻まれている。植山地蔵と呼ばれているが、お地蔵さんではなくて大野から緒川新田へ来た時の道しるべという。
 ここで信号を渡ると唐治屋敷に入り、狭い道が昔のメインストリートで30mほど先の県道沿いに立派な常夜灯がある。これは明治20年に建立された、それ以前は刈谷市の市原稲荷神社の南入口にあり、逢妻川の入江にあり船の目印とされていた。常夜灯の持ち主は井野安右衛門という人で、この人から25円で買い受け、唐治屋敷30戸の者が総出で運搬し建立に当ったという。寂しい山里であった明治.大正時代、今は自動車が激しく流れる県道に面し120年の沿革を眺めてきた証人?である。そして、昭和5年頃の写真には常夜灯のすぐ近くに小さな一軒家が写っている。大正11年常夜灯の隣に、唐治屋敷の人たちがお金を出し合い図書館を建設したのだ。これまで東浦の各字ごとの勉強をしてきたが、集落単位で図書館を建てた記録はない。いわば開拓者として緒川新田に入植し、頑張ってきた人たちにとって、将来を託すべき若者を自ら育成するという先進的な取り組みであった。
 その図書館には仙波太郎中将の書「背私向公」が掲げられていたという、その意味は「自分を捨て、公のために尽くせ」というもの。この言葉は、開拓者として緒川新田に入植した者の気概が感じられる。

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   唐治屋敷の常夜灯       八巻古窯跡で専門家の説明を聞く参加者

3 専門家から説明を受けた「八巻古窯」
 常夜灯から集落の上り道を進むと、新しい道路を建設している場所に出る。そこに東浦町教育委員会の立て看板が立っていて、昭和36年に名古屋大学考古学教室で発掘調査が行われ三基の古窯跡が確認されたとある。そして、この5月からつい最近まで再度調査が行われていた、その状況について本日は休みみにもかかわらず、考古学センターの鈴木さんがパネルを使って説明してくれた。
 道路建設場所に四つの窯跡があって8.5m×2.5mの穴窯は、知多半島の古窯では最も古く平安時代12世紀前半の築造という。山茶碗、小皿などが出土しているが、磨き砂の混じった粘土は耐火度が高く、よく焼き締まるが、水漏れする欠点がある。知多半島の古窯は12~16世紀ころまで450年続いたが、東浦は鎌倉時代で終わっている。その理由は適当な粘土と薪が枯渇したため、南の方へ移動して室町時代後半になると次第に常滑周辺に集約されていきました。
 こうした説明を聞いている間も、狭い道を軽自動車が何台も行き来していた。目と鼻の先は東海市の家並みが連なり、まさに東浦の外れになるこの辺りは今後の発展が期待される地域だ。そのためには便利さのみを追求するのではなく、緑の多い豊かな自然を残しつつ町づくりが進められることを期待したいものだ。

4 北添墓地から雁狭間へ
 この後天理教の知多分会の前を右折して丘を下り県道へでた、緒川寄りへ30mも行くと県道沿いの高台に北添墓地がある。墓地は集落の外れに造られること、それに常夜灯は村の外れつまり入口に建てられる。このことから、先ほどの唐治屋敷の常夜灯からこの墓地までが昔の集落だったといえる。ここの墓地には1727年最初に緒川新田に入植した、戸田万助さんの子孫で戸田益男家の墓もある。12の墓石が並ぶ戸田家の墓石のなかで最も古いものは「宝暦9年」の年号が読める、つまり1760年に建てられたお墓だ。普通の四角い石柱ではなく、地蔵さんの様な形なので子供さんが亡くなっていることが分かる。周りを見ると墓石が一つではなくいくつかの墓石を集めた区画が点在している、最初に入植した12軒の方のお墓だろうか。
 それとこの墓地には珍しいものがある、墓地入口に立つ碑は槍ヶ岳開山で知られる播隆上人の名号碑。ちょっと読みにくいが「南無阿弥陀仏」と刻まれている、なんでも念仏修行の途中に緒川の善導寺へ天保9年(1838 )に立ち寄ったという。この播隆上人の名号碑が残っている中では最も南にあると言われている。そして、この碑の横には万栄教会のお坊さんたちの丸い墓石も並んでいる。

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   左端が播隆上人の名号碑     雁狭間の桜並木

5 70年間も隣町の世話になった学校教育
 墓地を出て今度は県道を横断して、水田が続く雁狭間へ入っていく。背丈の伸びた稲の青々とした水田が続き、美しい日本の原風景を見るような景色だ。しばらく行くと立派な桜並木がある、集合場所だったJAの所まで続いている。でもその先には道沿いに鉄工場があった、開発が進み発展する自然の姿かもしれない。でも農地が続く中にぽつんと工場ができることは望ましいことなのか、農地転用の基準はこれでいいのか…..考えさせられる。
 そして遠くに卯ノ里小学校を眺めて少し行くと、平成4年に開園した緒川新田保育園が現れた。緒川新田における学校教育の歴史をみると、同じ東浦の住民でありながらとても気の毒な経過をたどっているのに驚いた。その主な歴史は次の様なものだ……….
 明治9年(1876 )  万栄庵(今の万栄教会)に博文学校
 明治20年(1887 ) 尋常小学緒川校.分場(今の万栄教会)
 明治25年(1892 ) 緒川新田尋常小学校(今の万栄教会)
 明治41年(1908 ) 緒川新田尋常小学校を廃止.八幡村の小学校へ委託
 昭和22年(1947 ) 新制中学校誕生するも八幡.阿久比.横須賀.東浦の4中学に分散修学
 昭和48年(1973 ) 緒川新田保育園が開園
 昭和54年(1979 ) 卯ノ里小学校を新設 → 70年間に及んだ児童委託が終わる
 昭和62年(1987 ) 西部中学校を新設
 昭和63年(1988 ) 私立東ケ丘幼稚園が開園
 私が中学生の時も緒川新田の生徒は四か所に分散していたので、緒川新田からは男女1名ずつの2名しか登校していなかった。男子の名前は今も覚えている背の高い戸田邦弘君だでも彼らは四校に分かれていて同年会とか、同窓会はできるのかな? この年になってくるととても重要なことに思えるのだが。

6 江戸時代に植えた夏ミカン
 田園地帯を進みJAへ向かう道を横切ると、前方にこんもりした山が見えてくる。上から見ると丸くなっているので「丸山」と呼ばれる。その手前にあるお宅が1729年に緒川から移住してきた12名の一人、助三郎家から分家した竹内三夫さん宅。約250年前に現在のところに住んだのが始まりという。分家した時に本家から大黒様をもらったという話を聞いており、今でも大事に仏壇に飾ってあるそうです。おそらくその時に植えたと思われる夏ミカン、柿、梅、グミなどがあり、小さい頃はおやつとして食べていたそうです。
 今も庭に残る夏ミカンや柿は当時植えたものと伝えられており、250年ほど経っている。
 夏ミカンは大変酸っぱい味だとか、また垣根として防風林の役目をしていた槙の木の1本が伐採されずに庭に残っている。われわれが伺うと竹内さんは、庭に出てこれらのことをわざわざ説明してくれた。きっと昔のことを思い出しながら話してくれたのだろう。

7 東ケ丘団地の開発が緒川新田を変えた
 この後は中釜池の集落を通り、知多半島道路の見える東釜池まで歩いた。盛り土の高い所を走る知多半島道路の白い防音壁が続き、その上に東ケ丘団地の家並みが半分だけ見える。
 家が途切れる所に大きなアンテナがちょこんと見える、そこの所が高根山だが今は昔の雄姿はない。アンテナがなかったらその場所さえ分からなくなっているのだ。
 ここに団地を建設する計画は昭和30年代、愛知用水ができたころから話題になっていたそうだ。高根山の一部に区有地があったほかはほとんど私有地で、東仙坊などは東浦在住でない不在地主もたくさんいたそうだ。そして、団地内にスーパーができたのは平成9年のことで、入居が開始されてから15年目という。それまでは話が旨くまとまらず、4軒目でようやく話しがまとまったとか。スーパーのマルスは私も石浜店を利用しているが、実は友の細君がマルスの娘なのだ、先日親父さんが亡くなられたが、お店は半田にも出店するなど頑張っている様子。町会議員だった久米義金さんはじめ多くの方の協力により実現し、今ではなくてはならぬ存在になっている。
 団地名はそれぞれ地名の旧小字名からつけられ、昭和53年に卯ノ里小学校、昭和63年には西部中学校が開校した。多くの人が緒川新田に移り住んだ経過は次のようなものだ。

 ≪緒川新田の世帯数の推移≫
         緒川新田全体  東ケ丘団地
 明治20年     68       0
 昭和28年     85       0
 昭和33年     89       0     昭和30年巽ヶ丘駅新設
 昭和58年     789       46    東仙台入居開始
 昭和63年    1544      672    丸池台入居開始
 平成5年     2184      1014    上高根台入居開始
 平成22年    2980(8,505人) 1579(4,887人)

8 狼煙台があった高根山に尾張藩主徳川宗春もきた
 高根山はかつて標高83.3mで常滑市樽水の本宮山86.6m以北では最も高かった。享保18年(1733 )第七代尾張藩主徳川宗春が知多巡覧のおり、この山の景色を賞し山頂に一亭を築かせた。特に名古屋城を望むことができたので、「望城が丘」と命名したと伝えられている。
 今ならさしずめツインタワーかトリトンが望めたということか。
 そんな話が残る高根山には狼煙台があった。嘉永6年(1853 )浦賀に黒船が来襲してから、尾張藩は海の守りを厳しくする一環として大井(南知多町)、不土(美浜町)、長尾(武豊町)、亀崎(半田市)、緒川の高根山、大高の6ケ所に狼煙台を造らせた。高根山の狼煙台跡は住宅造成により跡形もないが、大井の遺構は今も当時の名残りをとどめている。およそ4m四方の高さ3.3m、土壁0.7mの厚さで造られていた。
 狼煙台というから狼の糞を燃やしたとか言うが、この地方に狼がたくさんいたのか疑わしい、実際は別の物を燃やしたのでは。でもこの狼煙台は実際には使われなかったようだ。

9 新旧住民の間をとりもった山神社
 狼煙台跡を遠望して知多半島道路にぶつかる地点から引き返した、この道は先ほどの丸山、JAへ続く昔のメインストリート。竹藪の中を通りとても涼しい、天然のクーラーといったところ。後で他のグループの人から聞いた話では、昔はここに東屋もあったという。今は竹藪の手入れもされていない様子だが、お年寄りの参加がなければ知ることもなかった。
ちょっとだけほっとしたものの、そこからは上り坂になっていてそれがかなりきつかったのが本音だ。まもなくスタート地点のJAに到着した、さすがにかなり疲れた。でも私たち2グループは10分間隔で八巻古窯跡へ行くために、JAの隣にある山神社と万栄教会のうち万栄教会のみ案内した。
 みなさんJA前の木陰に腰をおろしてお休みモードになってしまった、そのため山神社についてはその性格と歴史についてその場で説明をした。

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   山神社拝殿            伊予大三島大山祇神社参拝記念の碑

  由来; どこの村にもある山の神を祀ったもの。山の神の御本尊は
   伊予の大三島にある大山祇神社。山の神、海の神、戦いの神とし
   て歴代の朝廷や武将から崇拝を集めた。
  祭神; 大山祇神
   山神社の改築を行う時に起宿に見学に行き、そのとき岐阜市で
  仙波中将と言う人に会う。ならば伊予の大山祇神社を参拝しなさい
  と勧められ、参拝に行っている。この時分神を勧請したかもしれない…。
   そのためか本殿の囲いには大三島の「三」が彫られている。

 この山神社を説明するのに一番大切なことは、新田地区の新旧住民の交流と融合を深めるのに大きな役割を果たしてきたことだ。昔は山神社の祭礼で「おまんとう」が行われていたが、後には半田~横須賀の村々のように「芝居」が中心の祭り変わっていきった。しかし、その芝居もいつしかなくなり神事とお囃子だけになってしまった。
 それが、昭和56年に久米義金さんが区長になると時を同じくして東ケ丘団地の入居が始まり新住民が増加した。増加した新住民と調和を図るためにアンケートを取ったところ、祭りをやってほしいという意見が多かった。そして、昭和57年に「子供神輿」が行われるようになり、昭和62年からは小中学生にお囃子を教えるようになった。
 こうして考えてみると山神社の祭礼復活が村発展の起爆剤になったと言えるのではないだろうか。みんなが一緒になって何かをやる時に、初めて心の交流ができることを物語っている。

 炎天下における2時間にわたるガイドを、熱心に聞いてくれたことに感謝です。

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