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2010/09/28

ふるさとの散歩 ~坂部城に於大を偲ぶ~

きょうは、毎度お馴染み。ふるさとガイドボランティアをされている読者の方からいただいた紀行文です。前回の『緑豊かな緒川新田を歩く』は好評でした。

 6月26日小雨の中、9:00に資料館を出て、阿久比町の図書館へ向かう。ふるさとガイドで前よりお願いしていた於大、水野家と久松家の史跡見学である。

坂部城跡と久松家

 坂部城は戦国時代の久松氏の居城跡で、町指定文化財として今は城山公園となっている。当時、久松氏は大野城(常滑市北部)を拠点とする佐治氏と争っていた。しかし、久松俊勝は天文15年(1546 )佐治氏の一族より、息子の信俊に妻を迎えて和睦した。これは松平広忠の仲介によるという。ここ坂部城は於大の方が20歳で久松俊勝と再婚し、3男4女を生んで15年間暮らした所である。そして、桶狭間の戦の折に徳川元康が於大と16年目の再会が行われた場所でもある。
 合戦後、俊勝は松平元康の招きを受けてその家臣となり、於大ら妻子を連れて三河国にはいった。信長と元康が同盟を結ぶと、阿久比の地は織田氏の支配下となり、家康と血縁のない信俊が、尾張国内の久松氏の所領をもって信長につかえる。
 信俊は石山合戦の際に、佐久間信盛の指揮下で石山本願寺を攻めていたが、信盛の告げ口(久松氏はかって一向宗を保護していた)によって、突如信長から謀反の疑いをかけられ、信俊は大阪市天王寺において自害を遂げてしまう。その直後、信盛は阿久比城を攻め落とし信俊の子供たちのうち2人を殺害した。しかし、胎児であつた信平は生母とともに保護され、外祖父佐治対馬守のもとで出生したという。またその子信綱は松平定勝につかえ、子孫は伊予松山藩家臣となった。
 歴史の舞台となった坂部城にその面影はなく、西側にそれらしい空堀の跡があるのみで南は開けて田畑が広がる平野である。本丸跡の広場には「於大の方400年遠忌記念」の植樹と、於大が持参したという綿が10cm程に成長した綿畑があった。

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   本丸跡で説明を聞く

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   記念植樹

於大と久松家の墓

 このあと少し歩いて洞雲院へ移動する。この寺は平安時代に菅原道真の孫が、天台宗の久松寺として創建したと伝えられる。これが室町時代になって、久松定益が曹洞宗の洞雲院として再建した。門をくぐって境内に入ると本堂がなかった、パイプの柵がめぐらされて再建工事中だという。この時期に本堂を再建するとは大したものと、驚いたり感心するやら…..。境内の裏手に久松.松平家の立派な墓が鍵の手に5基並んでいる。正面に坂部城を築城した定益とその子定義、そして、定義の子俊勝とその妻於大が並び、さらに二人の孫で第三代桑名城主になった定綱の墓だ。

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   於大と俊勝の墓

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   ボランティアガイドの説明を受ける

いずれも立派な石造りの囲いがある、同じ時期に造られたものらしいが、はっきりしていないという。孫の墓が一つだけあるのもよく分からない。ここから少し離れたところには坂部城最後の城主、久松信俊と落城のさいに殺害されたその子小金丸と子安丸の墓がある。いずれも小さな墓と二組ある、本物が小さいので大きくて立派な墓を造りなおしたようだ。八幡神社へ寄ってから図書館へ戻り、於大が20歳から34歳に血で書いたという「阿弥陀経」を見学した、そこにはきれいな文字が並んでいた。そして、於大の大きな絵が掲げられた図書館では、多くの人たちが読書していた。

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   信俊とその子の墓

 

以下は、第4回ふるさと散歩のお誘いです。

 10月2日は森岡を歩いてみませんか!!

  東浦ふるさとガイド協会では第4回ふるさと散歩を下記のように開催いたします。

 日時   10月2日(土) 午前9:30~11:30
 集合場所 森岡公民館
 コース  村木神社~後狭間~飯喰場~臨江寺跡~村木砦古戦場跡
      ~金鶏山古墳跡 etc.
 保険代・資料代 100円

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