町内の中学校の校長先生が書いたトイレにまつわるお話しです。トイレを快適にするのも不快な場所にするのも使い方次第です。
ト イ レ の 話
私たちの生活に欠かせないものといえばたくさんあるわけですが、「私たちの家の中で一番大切な場所は」と聞かれたらどこだと答えますか?。どこの家にもあって他の場所では代用できない所があります。それは……トイレです。寝食は寝室やダイニングなどでなくてもできますが、用を足すのはトイレでしかできません。どこの家にも学校にもあり、あって当たり前であり、使えて当たり前であるトイレですが、私たちはそのありがたさを考えたことがあるでしょうか。
今ではトイレといえば水洗が主流になり、シャワー付き、乾燥機能付きのものまであります。しかしトイレが今のように清潔で使いやすいものになったのはまだまだここ数十年のことです。江戸時代から続く昭和の時代までは日本のトイレといえば糞尿を溜めておき、それを汲み取って処理をしていました。江戸時代には人糞は絶好の肥料になるということから農家の人達が野菜と交換したり買ったりしていたそうで、長屋にある共同トイレの人糞は大家さんの大きな収入源になっていたそうです。またヨーロッパでは下水道が発達する18世紀頃までは、各家庭にトイレという場所はなかったそうで、糞尿を溜めておくおまるのような容器で用を足し、その糞尿をなんと窓から外へ捨てていたとか。今ではおしゃれな街並みもかつてはあちこちウンコやオシッコだらけだったわけです。
18年前に起こった阪神淡路大震災の折、避難所生活で一番困ったのもトイレだといいます。水が出ないものですから避難所になった学校のトイレは機能しません。だれかがウンコをする。流せないのでその上にまたウンコをする。こうしてトイレはウンコが山盛りになり使えなくなる。すると運動場に行き側溝で用を足す。そこも使えなくなり今度は運動場に穴を掘りそこでするという具合です。ニオイもすごいし、不衛生きわまりない状態だったということです。
ところが世界に目を向けてみると今でも全世界の人口の3分の1にあたる25億人がトイレのない生活をしているそうです。そうした人々は屋外の道路脇や川などまた木の繁みや草むらなどで用を足さなければならず、蛇に襲われたりするなどいろいろな危険が伴うそうです。その上きちんと処理されない糞尿が川や池などに流れ込むこともあり、その水は生活用水にも使われますので、コレラなどの伝染病が蔓延する原因にもなっています。今日世界の先進国で平均寿命が延びたのもトイレのお陰だといわれているくらいです。
さて、このように私たちの生活には無くてはならないトイレなのですが、私たちはどのような使い方をしているでしょう。私の家のトイレに「ここは孤独なところ 自分が自分になるところ」という言葉が掛かっています。なるほどとつくづく思います。トイレにこもる。そこは誰にも見られません。そういうところでこそ人は自分の本性が出ます。「素になれる」と言った方がいいのかもしれません。しかし逆に、どんな使い方をしても誰も見ているわけではありません。だれからも咎められません。ましてやそこが自分の家でなかったら。学校や公共のトイレだったら。トイレの使い方には人間性がよく出ます。トイレは大切な修行の場ともいわれる所以です。
日本では少し前までトイレではなく便所という呼び名が主流でした。これは「大・小便をする場所」という意味ではありません。そもそも「便」という言葉は「交通の便がいい」などの使われ方をするとおり、「都合がよいさま、安らかで快適なさま」という意味があります。「便所」とよく似た言葉「便室」とは御殿の中の休息のための部屋のことです。すなわち「便所」とは便意から解放されすっきりする場所、安らげる場所という意味なのです。なるほど…と思いませんか。だとしたら英語でトイレのことをrestroomといいますが、まさにその通りという感じがします。
私たちの生活に欠かせない大切なトイレ。そのトイレが本当に「安らげる場所」であるよう快適に使えるよう汚さず美しく使い、感謝の気持ちをもって大切にしていきたいと思います。
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掃 除 を す る と 人 生 が 変 わ る ?
今年の冬は本当に寒い日が多いように思います。立春も過ぎ雨水を迎え、日差しもだんだん強くなってきているというのに、気温は一向に上向きになりません。今年の名古屋の一月の平均気温は平年と比べると0.5℃ほど低いとか。春らしい暖かな日が待ち遠しいこの頃です。
さて、卒業式まであと3週間を切った先週の木曜日、本校では三年生の皆さんによる愛好作業が行われました。内容は3年間お世話になった校内の清掃活動です。教室や廊下、手洗い、階段、体育館、飛翔館、トイレ、側溝など校内のいたる所を一生懸命に掃除しました。
冷たい水に手を真っ赤にし、廊下や教室のぞうきんがけをしたり、トイレの便器を磨いたり、冷たい風に吹かれながら側溝の泥をすくい上げたりと本当に一生懸命取り組んでいました。普段の掃除の時間とはまた違った思い入れがあるのでしょうか、それとも体操服に着替え、掃除モードになっていたからでしょうか、どの子もとても充実し、いい顔をして取り組んでいました。
私もつい嬉しくなって「ごくろうさん。ありがとうね。よろしく頼むよ」と声をかけます。すると、どの子からも「は~い」という明るい返事とともに、とびきりの笑顔が返ってきます。その顔を見ると「掃除」の持つ力、人を育てる力を感じます。掃除は子ども達に充実感・役立ち感を与えられる最も簡単な行為です。ほんの少しでもやったらやっただけの目に見える成果が表れますし、それにともないやりがいも感じます。そして周りも喜びます。「ごくろうさん」とも言われれば役立ち感もひとしおです。また何よりも「きれいにすると気持ちがいい」「きちんと整った環境では勉強もしやすい」などという純粋な効果が子どもたちにプラスのエネルギーを与え、それがあの一生懸命さを引き出し、笑顔を作り出しているのだろうと思うのです。
先日縁あって「なぜ『そうじ』をすると人生が変わるのか?」(志賀内泰弘著、ダイヤモンド社)という本を手にしました。その中に「ゴミを一つ捨てる者は、大切な何かを一つ捨てている。ゴミを一つ拾う者は大切な何かを一つ拾っている」という言葉がありました。そして著者はその何かを「信用」だと述べているのです。なるほどと思いました。
私はかねてから、掃除は人柄を表す最たるものだと思っています。掃除はとても地味な活動です。一つ一つ、一歩一歩順番に片付けていかなければならなりません。面倒な作業です。子どもたちの取り組みの様子を見てみますと明るくてきぱきとこなす子や黙々と誠実に進める子がいる反面、手にした道具をただ動かしているだけの子や手よりも口の方がよく動いている子もいます。
表立って言われることはないかもしれませんが、どんな取り組みをしているかは周りがちゃんと見ていて知っています。誰も見ていなくても一生懸命掃除ができる子は信用できる子です。そういう子には大切な仕事を任せられます。逆に掃除一つできない子に大切な仕事は任せられません。
また著者は、「『仕事とは気づき』である。掃除はその『気づき』に気づかせてくれる」とも述べています。掃除とは汚い所を探すことから始まります。汚い所というのは「ここをきれいにすれば人が喜ぶ所」ですから人の欲するところです。すなわちその気づきとは人の欲するところに気づくということであり、「そこに仕事が存在する」というわけです。
こうして人の欲するところに従って役立つ、そういう仕事ができるようになれば、信用も得られるようになり、そこから出会いが生まれる。その出会いが縁となり、多くの人から支えられ、それが徳という力になってより大きな事を成し遂げられるというわけです。このようにして考えれば、掃除をすれば人生が変わると言ってもいいのではないかと思います。
しかし掃除は、けっして人生を変えようとか成功しようとかいう目的でするものではありません。あくまでも「掃除をすると気持ちがいい」「きれいにしたい」という純粋な気持ちで行うべきものです。そういう気持ちで行ってこそ、またそれを続けてこそ、その本人にしか得られない何かが得られ、人から認められるようになるのだと思います。掃除とは磨くという行為を通して自分を磨いているのですね。
「掃除は打算や損得では続かない。掃除をしても報酬は得られない。でも、打算や損得なしで続けていれば『徳』が得られる」とはカレーハウスCoCo壱番屋の創業者、宗次德二氏の言葉です。著者も言っていますが、掃除をする人には、神さまがきちんと見ていてくれて、いつの日かわからないけどちゃんとご褒美をくれるのです。その意味でも掃除は「してあげる」のではなく「させていただく」という気持ちで行うことが大切だと思います。
ひと頃トイレの神様という歌が話題になりました。その中に ♪トイレには それはそれは キレイな女神様がいるんやで。だから毎日キレイにしたら 女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで♪ という歌詞があります。私はこれは本当のことだと思っています。「べっぴんさん」とは輝ける人柄のこと。掃除は毎日の習慣。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わります。たかが掃除、されど掃除。掃除の大切さを今一度見直してみませんか。
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