刈谷城築城四八〇年記念会
刈谷市産業振興センターにて、刈谷城築城480年を記念して、徳川宗家18代当主 徳川恒孝(つねなり)氏と水野宗家20代当主 水野勝之(かつゆき)氏をはじめ各地の水野家の御当主、そして、幕末までの刈谷藩主 土井家の御当主、重原藩主 板倉家の御当主など、そうそうたるメンバーをお招きして講演会とシンポジウムが開かれました。
シンポジウムのあと、刈谷市、岡崎市、東浦町、茨城県結城市、奈良県大和郡山市、和歌山県新宮市、広島県福山市など水野家ゆかりの関係自治体の首長、教育長が集まり、水野家関係自治体サミット。そして、徳川家、水野家の方々、関係市町、刈谷、福山、結城の士族会の皆さんが一堂に会して交流会が行われました。
徳川恒孝氏は、今ちょうどNHKの大河ドラマの舞台になっている徳川家の親戚筋、会津の松平家から婿養子として徳川宗家に入ったのだそうです。学習院時代には、席のすぐ近くに毛利君とか、島津君、そして伊達君がいらしたそうです。
講演で、恒孝氏は下記のようなことをお話しされました。
「江戸時代は、進歩のない封建的な時代と捉えられがちだが、見方を変えれば、平和で文化的な時代だった。幕末に日本を訪れたイギリス人やアメリカ人が、日本のことを、”暮らし向きが良い”、”住民は幸せで満足している”、”こんな独自の高度な文化と教養のある国を欧州の宗教と教育で侵略するのは忍びない”などと記述したものが残っている。
江戸の270年間は平和だった。17世紀の100年間で、ヨーロッパで戦争がなかったのはたったの5年間だった。明治維新以降の軍事費は、明治の初めは国家予算の28%、日清戦争時69%、日露戦争時82%、第二次世界大戦時75~85%にもなっていた。戦争は金がかかる。一方、江戸時代は平和だったのでインフラ整備に金を回すことができた。
日本には宝石文化がない。ヨーロッパの王侯貴族は革命があれば宝石を持って逃げる。日本では天守閣に上がって腹を切る。大名は頭を下げて町人から金を借りて藩のやりくりをしていた。日本ほど権力者に富が集中しない構造は、世界史上稀ではないだろうか。」
シンポジウムでは、水野勝之氏をはじめ水野家ゆかりの皆さんからお話しを聴くことができました。かつて徳川本社の幹部社員として、それぞれの赴任地へ転勤していく水野家一族の歴史を、楽しく聞かせていただきました。
「水野貞守以前の家系ははっきりしないが、清和源氏満政流を名乗っている。
水野家の家紋は通常、立ち沢潟(たちおもだか)だが、宗家だけは抱き沢潟(だきおもだか)を使っている。寛永年間に将軍家光が諸家に命じて作らせた寛永諸家系図傳(寛永譜)と寛政年間につくり直した寛政重修諸家譜(寛政譜)が家系の拠り所となるが、寛永譜になく、寛政譜にある近守が、水野忠政の長男?として不明確なことを東浦町史でも指摘している。信元の兄弟は9男6女あったとされており、於大はその一人だ。
3代刈谷城主 忠重の子、刈谷藩初代藩主の勝成は、19歳から35歳まで諸国を放浪していたが、家康の書状のおかげで、帰参して刈谷城主となることが認められた。その後、大和郡山、福山と赴任し、75歳の時には高齢にもかかわらず島原の乱に参陣し、88歳で死去した。勇猛で、戦が滅法強かったと言われている。刈谷市のゆるキャラ”かつなりくん”のモデル。勝成の系統は、結城で明治維新を迎える。
山形水野の系統からは、天保の改革を行った老中 水野忠邦が出ている。行き過ぎた質素倹約令のために3年で失敗したが、香港がイギリスに占領される状況の中で、国防の必要を強く感じ台場の整備や印旛沼の開発などを進めていた。この系統は、岡崎、唐津、浜松を経て、山形藩主を務めた。
沼津水野家は、80年間、松本を治めた後で、旗本に格下げ、その後、沼津藩主となり幕末を迎える。於大の眠る傳通院から道路一本隔てたところにある真珠院は、松本城主であった水野忠清を開基としている。
新宮水野家は、江戸時代の比較的初期から紀州藩の付家老(幕府の監視役)として、幕末まで紀伊徳川家に仕えた。」
水野家関係自治体サミットでは、各自治体の自己紹介を行ってから、”水野家ゆかりの地としての歴史を、共通する財産として次世代に継承すること”、”自治体間における友好関係を築き、観光交流の促進を図ること”、”それぞれの自治体の歴史と文化を大切にしたまちづくりを進めること”を謳った「水野家ゆかりのまち交流宣言」を採択しました。
自己紹介では、以下のようなことを述べさせていただきました。
水野氏は、境川・衣ヶ浦をまたいで、尾張国知多郡と三河国の両方に領地を持っていました。今また、郡の垣根を越えて、東浦町は、刈谷市と衣浦定住自立圏協定を結び、医療の連携やコミュニティバスの乗り入れ、公共施設の相互利用を進めています。
東浦町にはかつて、水野氏が発祥した城、緒川城がありました。今日まで続く乾坤院は、1475年に初代城主の水野貞守公が水野氏一族の菩提寺として創建したものです。
4代目城主の水野忠政公が480年前の1533年に刈谷城を築城し、本拠を対岸の刈谷に移したと言われています。その少し前の1528年に徳川家康の生母となる於大姫は、忠政の娘として緒川城で生を受けました。於大姫は、5歳まで緒川城で過ごし、刈谷城に移ったのち、13歳で岡崎城の松平広忠公のもとに嫁いています。
このような歴史にちなんで、東浦町では、乾坤院近くを流れる明徳寺川沿いに八重桜を植え、少しずつ並木道を延長しているところです。また、水野氏、徳川氏にまつわるエピソードをつづった「於大のみち」や乾坤院の隣に「於大公園」を整備し、住民の憩いの場となっています。毎年4月には、「於大まつり」を開催し、於大姫や忠政公に扮した行列が八重桜の下を練り歩きます。昨年からは刈谷からも成人の於大の方、於富の方、於上の方に参加をいただき、行列を盛り上げています。
歴史に”if”はないと言いますが、もし、緒川で於大の方が生まれなかったら、今の東京はなかったんじゃないかと申し上げたいと思います。
この度、刈谷城築城480年記念会で、水野家にゆかりのある皆さまと新たなつながりができましたことは本当に嬉しいことです。今後交流がますます盛んになることを心から願っております。
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神谷町長様
水野勝之です。先日は築城480年記念会ではお世話になりました。翌日も猛暑の中、乾坤院までお運びいただき
ありがとうございました。ゆっくりお話しする時間がなく
失礼いたしました。小河は水野発祥の地であり、刈谷とともに思い入れのあるところです。
先日、堅雄堂を短時間、拝観いたしましたが、興味ある
位牌群に身震いをいたしました。またあらためて、参らせていただきたいと思うし、水野のことについて、語り合いたいと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。平成25年8月20日 水野勝之
投稿: 水野勝之 | 2013/08/20 16:19
神谷町長様
水野氏史研究会の水野克彦でございます。
過日10日は、「刈谷築城480年記念会」でお世話になりありがとうございました。
今朝ほど、役所のメールに送信させていただきましたが、水野勝之様から、こちらのblogでも関連記事を投稿なさっておられるとお知らせいただき、本会記事に追記させていただきました。これからもよろしくお願い致します。
投稿: 水野克彦 | 2013/08/20 17:27
水野勝之様
直々のコメントをいただきありがとうございます。
五百年も家系を遡れるということはすごいことだと思います。それもかなり正確に。
(外国の事情はわかりませんが、)世界的に見てもそんな家系は多くないのではと想像します。
「東浦はこれと言って何もないところですから」と言いつつ、住民も水野家とのかかわり、於大の方とのかかわりを誇りにしているところであります。
是非、再びお越しいただければ光栄ですし、お話しさせていただきたいと思います。こちらこそ、どうかよろしくお願い申し上げます。
投稿: 神谷明彦 | 2013/08/21 01:35
水野克彦様
貴ブログでの、丁寧なご紹介ありがとうございました。
以前にも拝見したことがありますが、水野家関係の情報が盛りだくさんのサイトです。今後とも(資料としても)参考にさせていただきたいと思います。
また、歴史に興味のある住民のみなさんにも紹介させていただきたいと思います。
ブログ「水野氏史研究会」
http://mizunoclan.exblog.jp/20954389/
facebook
https://www.facebook.com/pages/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E6%B0%8F%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A/269053066545325?ref=stream
投稿: 神谷明彦 | 2013/08/21 02:04
三重県新宮市ってどこにあるのですか?いくら地図を見ても存在しませんよ
投稿: 松根康人 | 2014/06/14 11:30
松根さま
失礼しました。和歌山県新宮市の誤りです。
さっそく訂正しました。
ご指摘ありがとうございました。
投稿: 神谷明彦 | 2014/06/14 15:42