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2014/12/12

久しぶりに一人でしんみりウイスキー

サントリーの蒸留所が知多市にあるのはあまり知られていません。その知多蒸留所で造られたシングルグレーンを味見してみました。グレーンウイスキーのことを”サイレントスピリッツ”と言うのだそうです。「沈黙」と言うくらいだから、主張がないクセがないということなのでしょうか。まろやかで落ち着いた口当たりでした。このシングルグレインは「響」にもブレンドされているそうです。

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もう一杯は、今朝ドラで話題、ニッカの「竹鶴」をいただきました。

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コメント

今のサントリーウイスキーがあるのもニッカの竹鶴政孝さんと鳥井信治郎さんとの出会いがありました。ご存じでしょうか。下記記事があります。
私の履歴書 復刻版 竹鶴政孝
第1回 運命のとびら ウイスキー造り一筋 多くの人々に助けられて
http://bizacademy.nikkei.co.jp/top-management/resume12/
---略---また摂津酒造の阿部喜兵衛氏の好意がなかったら、どんなに私がウイスキー造りに興味をもっていたにせよスコットランドに留学することはありえなかった。英国ではグラスゴー大学のウィリアム博士やイネー博士、グラント工場長その他の協力がなかったら、ウイスキー造りを覚えられなかったのはもちろん、本場の原酒(モルト)工場に一歩もはいれなかったに違いない。さらに時代を考えても当時日英同盟という政治的背景がなかったら、はたしてスコッチの工場が私を見習い技師として採用してくれたかどうかはなはだ疑問である。
 寿屋(サントリーの前名)の鳥井信治郎社長が洋酒の将来性を確信して、ウイスキー造りに金は出すから君にまかせる、といわれてつくった山崎工場がなかったら、はたして日本は今日のようなウイスキーができる国になっていただろうか。そしてまた私が寿屋から独立して今の会社を創立するときには、英国留学時代からお世話になっていた柳沢伯と隣人の芝川又四郎氏、加賀正太郎氏の絶大な協力があった。さらに私の念願だったカフェ・グレーンを日本で初めてつくるときには山本為三郎氏(出資当時の朝日麦酒=後のアサヒビール=社長)の積極的な援助があった。こうして考えてみると、私がウイスキー造りに精進できたのは皆さんの協力が運命のとびらのように次々と開いていって、おのずと私をこの道一本に導いてくれたといっても過言でないのである。--略--
第5回にはそれまでの二人の出会いの経緯が書かれています。
 私が摂津酒造のいたころのおもなお得意は、小西儀助商店、寿屋、外山商店、越後屋などで、摂津ではそれぞれの店の商品の委託を受けて洋酒をつくっていた。鳥居のマークで売られていた“赤門ぶどう酒”は小西儀助商店、“ヘルメス・ウイスキー”“赤玉ポートワイン”は寿屋から出ていたが、いずれも中身の製造は攝津でやっていた。
 それぞれの店の注文に応じて、ウイスキー、ぶどう酒、リキュールをつくり、1石(約180リットル)はいる洋だるにつめて工場を出す、これが私の仕事であった。

投稿: とだ-k | 2014/12/17 21:19

この方も、やはり、「よそ者、若者、ばか者」だったのでしょうか。

投稿: 神谷明彦 | 2014/12/19 17:35

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