小石川傳通院の於大の方の墓所に東浦町観光協会の碑文が完成
今日も良い天気。
静岡県に入るや否や、浜名湖辺りから富士山が見えっぱなしです。
上の大きな富士山は、かつて長さ日本一と言われた鉄橋の上から。
下の写真は、東京に向かって右側(A席側)の窓から見える富士山です。そんな馬鹿なとお思いの方もいらっしゃるかも知れませんか、名古屋から向かって静岡駅の少し手前で、唯一、富士山が右側に見えるところがあるのです。
小石川傳通院の於大の方の墓所に東浦町観光協会の碑文が完成。十夜法要に合わせて除幕をしました。町制70周年記念の一つとして、寺院のご厚意をいただきながら観光協会が国産の石を使って企画・製作を進めてきました。
碑文にはこんなことが書かれています。
徳川家康の母 於大の方の生涯
於大の方は享禄元年(1528年)、愛知県知多郡東浦町の緒川城四代目城主水野忠政の娘として生を受けました。於大の方が六歳の時、父忠政は三河刈谷に城を築き、家臣と共に移ったと伝えられています。天文十年(1541年)、当時今川方であった岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、竹千代(家康)が生まれました。
その後、父忠政の死後、家督を継いだ兄信元は織田方に付いた為、於大の方は離縁され、刈谷へ戻ってきました。その後、坂部城主久松俊勝に再嫁し三男四女をもうけました。
夫俊勝が天正十五年に亡くなり、翌年尼となり、後に伝通院の号を授かりました。
慶長七年(1602年)於大の方は、天下をとった家康の招きで訪れていた京都伏見城で七十五歳の生涯を閉じました。
戦国の世を生きた於大の方は、争いの無い平和な世を願い続け、その波乱の生涯が時を超え今に語り継がれています。
於大の方の故郷東浦には緒川城址と、水野家四代の墓所(菩提寺 乾坤院)が残っています。一度是非足を運んでみては如何でしょうか。
平成三十年十一月吉日
東浦町観光協会
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