2年前の前川喜平さんの講演
2年前に前川喜平さんの講演を聴く機会がありました。
加計学園問題で衝撃的な証言をした前川喜平 前文部科学事務次官が、「大人の隠蔽体質がなぜいけないか」「教育の自由はなぜ必要か」について、政権批判も加えて、実直、温厚な語り口でお話しをされました。
学校の先生や親が子どもの前で平気で嘘をつく、嘘を言わせる。確かに、その一時を考えれば組織にとって楽な選択かもしれないが、それでいいのか。子どもの教育への悪影、その子の人生への悪影響は計り知れない。嘘つき、隠蔽体質は即刻改めるべきだ。
成功したって良いのと同様に失敗したって良いじゃん。一番良くないのは、大抵の場合は、成功なのか失敗なのかわからないまま、反省しないまま、無為に過ごしてしまうこと。その選択は人生に全く生きてこない。
義務教育とは何か。
戦前は、国のために子どもが学ぶ義務だった。
戦後は、個人として自立し、良き社会の構成者となる機会を国が保証する義務。国民にとっては、無償の普通教育を受ける権利。憲法では、保護者が子どもに教育を受けさせる義務だ。
自民党の改憲案では、9条に第2項を書き加えるとしていて、その内容は、①非常事態条項 ②一票の格差を認めること。もうひとつは、あまり知られていないが、26条に第3項を加えて(あえて入れる必要もないようなことなのだが)、「国の未来を切り開くことを鑑みて」という一文節を含ませている。ここに国家優先の国家主義的・全体主義的な思想が混入していると感じる。
1948年に衆参両院で教育勅語廃止の決議をしたはずなのに、今、閣僚が教育勅語の復活に言及したりする。教育勅語によれば、まず国体が先。その一員として人間がある。人間は家に属し、国は家の集合体、すなわち大きな家だ。
中曽根総理の時に臨時教育審議会のパラドックスというのがあった。中曽根さんは教育基本法を改正したかった。それで、とりあえず「教育の自由化」について議論を始めたら、「教育の自由」の議論になってしまった。結果として憲法の再確認になってしまった。このときに特に話題になったのは、学習者の主体性で、個性重視、生涯学習体系(主体的学び)、変化への対応(国際化、情報化)などが取り上げられた。これを我々はパラドックスと呼んでいる。
教育は、自分で考える人を育てなければならないが、国民に自分で考えさせたくない人達が政治の力を握っている。
第一次安倍政権では、教育再生会議で道徳の教科化を目論んだが、伊吹文部科学大臣が実行しなかった。伊吹さんは自分より頭の良い人は居るわけないというタイプで「いぶキング」と呼ばれていた。三方良しの商人道など1980年以前の道徳観が大切との考え方だった。
第二次安倍政権では、教育再生実行会議を立ち上げ、教育基本法を改正。教育の目的として、道徳や公共の精神など、国家主義的な内容が加えられた。
道徳の教科化は危険だ。官僚は政治家に従って行政を執行するものだが、文科省は完全に魂を売り渡したわけではない。教科3点セットの中で、検定教科書は認めたが、専門免許状はできない、評価は個人内評価として、何か良いところを見つけて褒めてあげれば良いとした。官僚に自己主張がなくなったらヤバいと思う。
日本の戦後は、個人と国家のせめぎ合いの歴史だ。今は、国家主義の方に振れているという危ない時代認識を持っている。
主体性を持った子どもたちを育てるのが教育の使命だ。そのためには、教師が主体性を持たねばならない。マスコミに聞かれたら自分の思ったことを答えれば良いというスタンスがほしい。
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