父が亡くなりました。94歳でした。
年始に父が亡くなりました。94歳でした。
父は昭和5年、今の静岡県湖西市に農家の8人兄弟の次男として生まれました。小学校の先生が家まで「この子をなんとか進学させてほしい」と説得に来るほど学業ができたそうです。それで、父は家族の皆から良い意味でのシワ寄せをいただいて、兄弟の中でただ一人大学を卒業することができました。ですから、湖西の実家と兄弟には並々ならぬ恩義を感じていました。
父はその後総合商社に勤務し、縁あって神谷の家に婿入りし紡績織布業の経営に携わりました。父は、経営者に必要なのは洞察力と決断力だと言っていました。それを強く感じたのは、バブル崩壊直後にいち早く工場を閉鎖した時です。取引銀行も「お宅は最後まで頑張ると思ったら、一番に工場を閉められた。でもあの時にいち早く閉鎖を決断するのが正解でした。そのまま続けていたらやめる体力もなくなっていたでしょう。」と後年に舌を巻いていました。
父は、4年ほど前に老人ホームに入りました。足腰が不自由になり車いすとベッドの生活でしたが、頭はしっかりしていました。昨年始めに「もう友達もいない、やることもなくて毎日がつまらない。でもどこも疾患がないので無為に生きている。」とぼやくので、「好きなマージャンをすれば?」といったら「お金を掛けないのでたるい」、「囲碁はどうか?」と聞いたら「皆弱いからダメだ」というのです。そうしたら、ボランティアで週一回ほど囲碁の相手をしてくれる強い人が見つかって、なかなか勝てないので1回3局ほど勝負を挑んで、俄然生き生きしてきました。
そんな矢先、昨年秋ごろに運悪くコロナに感染してしまい、コロナ自体はたいしたことはなかったのですが、誤嚥性肺炎を併発して入院、食べられないのでどんどん弱ってしまいました。栄養が足らないので、鼻から管を入れて胃に栄養を入れようかと提案しましたが、父は不自然な延命はしたくないというので、「自分で積極的に食べようね」と家族で励ましていました。地酒が飲みたいというのでとろみをつけて飲んだりもしました。しかし、95歳の誕生日を目前に、老衰で徐々に弱っていって、穏やかに息を引き取りました。最後まで自分なりの尺度を持ち冷静な決断のできる人でした。
父は我が道を行くタイプで、うちでは上げ膳、据え膳、わがままで人には謝らないし礼も言わない人でしたが、施設では「ダンディーな紳士」だったようで、人気者でとてもよくしていただいたと思います。
これまで、父がお世話になりました方々には心から感謝を申し上げます。また、私たち家族に対しましてもどうか皆様方の引き続き変わらぬご厚情をお願いいたします。どうもありがとうございました。
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